【以下ニュースソース引用】
ウルル&カタ・ジュタの「世界」 いま、オーストラリア旅に出る理由(後編)
オーストラリアにはこの時代だからこそ旅先に選ぶべき理由がある。
前編のメルボルン&モーニントン半島に続き、後編はレッド・センター(中央オーストラリア)へ。先住民アボリジナルの人々の聖地としても知られるウルルとカタ・ジュタを訪ねる。
地球の時間に思いをはせることができる
メルボルンから空路北西へ。窓外の景色がオリーブグリーンから灰褐色へ、さらに杏(あんず)色へと色合いを変えていくさまを飽くこともなく眺めつつ飛行すること約3時間、眼下の乾き切った平原に赤銅色の巨大な岩塊が幻のように現れる。
「あれがウルルか」
とっさに頭に浮かんだのは“絶海の孤島”という、実際の状態からは縁遠い言葉だった──。
ウルルは世界で2番目に大きな一枚岩である(*1)。
我々が目にする地表部分は高さ348m(*2)、周囲9.5kmだが、これは岩全体の4%に過ぎず、地下には深さ6kmまで同じ岩が続いているという。
地質学的に言うと、4億年以上前に形成された砂岩の地層が後の地殻変動によってほぼ90度傾き、大地に突き刺さった形でその一部を地表に晒(さら)しているもの。
今日岩の表面に縦方向に走る溝は、元々はミルフィーユの模様のように水平方向に走っていたものだ。
ところで、この赤い巨岩を「エアーズ・ロック」の名で認知している人が多いのではないだろうか。
最近では出版物、ウェブ共に「ウルル」と表記されることが多いのだが、そのわけをお話しするためにはオーストラリアと先住民・アボリジナルピープルの関係に触れなくてはならない。
一説には12万5000年前からアボリジナルの人々はオーストラリアに住むと言われる。
ヨーロッパ人による長い迫害の歴史があったが、20世紀後半になって彼らの権利を回復させる動きが始まる。
1967年に市民権が、93年には先住権が認められた。2008年には当時のケビン・ラッド首相がオーストラリア政府として初めて公式にアボリジナルの人々に対し謝罪の言葉を述べた。
近年は、アボリジナルの人々を正しく処遇すること、歴史や文化、ライフスタイルに敬意を払うことが広く浸透してきている
従来、彼らを指す言葉として使われてきた「アボリジニ」という呼称が差別的であるとして、「アボリジナルの人々」などの呼称に換えるようになった。また地名表記の際、英語と先住民の言葉をスラッシュで併記するようになった。
このような流れのなか、93年12月15日、ノーザンテリトリー政府により、「エアーズ・ロック/ウルル」と二重表記することが正式に決まった。
その後2002年にアリス・スプリングズ地域観光協会の要請によって二つの呼称の順序が入れ替わり「ウルル/エアーズ・ロック」となった(同様に、ウルルの西方約30kmにある巨石群カタ・ジュタは英語名のマウント・オルガと共に「カタ・ジュタ/マウント・オルガ」と表記される)。
「ウルル」という言葉に意味はなく、くだんの巨岩以外にこの言葉が使われることはないという。
ウルルはツーリストの目を驚かせる奇観である以前に、3万年前からここに暮らす先住民アナング族の人々にとって特別な場所である。
それは彼らの歴史観の根本である「ソングライン」(後述)の一部であり、信仰の対象であり、神聖な儀式を執り行う場所である。
岩肌の溝や出っ張りによる模様にはほとんど全てに意味があり、それぞれが彼らの語り継ぐ物語の重要な証拠となっている。
先住民の権利を回復する動きの一環として85年10月、ウルルの所有権がオーストラリア政府から本来の所有者である先住民アナング族に返還された。同時に一帯の土地が99年間の期限付きで国にリースされる契約が交わされた。これが現在のウルルの状況である。
かつてツーリストはウルルの頂上に登ることができ、それが人気のアトラクションになっていた(ふもとから頂上まで片道1時間から1時間半かけて登った)。
しかし、ウルルを聖域とする先住民の人々への配慮から2019年10月26日以降、ツーリストによる登頂は禁止された。
今もウルルの北側斜面には以前ツーリストが列を成して登ったルートが白っぽい筋となって残っている。
登頂禁止の直前には普段にも増して多くの人々が「最後のチャンス」をものにするべくウルルに押しかけた。
その大半が日本からのツーリストだったと聞いて、複雑な気分になった。
(*1)世界一の一枚岩は西オーストラリア州のマウント・オーガスタ。
(*2) この数字は周囲の平面から測った「比高」。海面の高さから測った標高は868m。
圧倒的な神秘を体験できる
エアーズ・ロック空港(コネラン空港)から車で10分ほど走るとウルル周辺唯一の町ユラーラ(「遠吠えするディンゴ」という意味)に着く。
ウルルまで20kmほどのこの町はツーリズムだけで成り立つ人口約1000人(取材時点で日本人の居住者は10人)の小さな町だ。ウルル周辺に6軒あるホテルのうち5軒はこの町の中にある。
「セイルズ・イン・ザ・デザート」(二つある五つ星のうちの一つ)にチェックインした。
広大なガーデンには幹が小麦粉のように白いユーカリの巨木が立ち並び、その葉が風にそよいで陽光にリズムを与え、プールの水面に光の粒を躍らせていた。砂漠の中のオアシスとはまさにこの光景である。
3階の客室に荷を下ろし、バルコニーに出ると、植栽や駐車場といったものからなる雑然として俗っぽい風景の先に、真っ青な空の下、赤黒くうずくまるウルルが小さく見えた。
バーン! 頭の中で巨大なシンバルが打ち鳴らされたような感覚があった。
この後、ツアーやアトラクションでもっとまぢかに、遮るもののないウルルの雄姿を拝むことになるのだが、後々に振り返ってみても、この時の印象が一番強烈、かつ鮮明だったと思う。
ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーが、宗教的体験の中核にあるものとして「ヌミノーゼ」という概念を生み出し、それは神秘的なものに対する畏(おそ)れ、圧倒される感じ、抗し難い魅力という要素をもっていると説明しているが、ホテルのバルコニーでこの時私に起こったのはまさにこのヌミノーゼ体験だった。
「ファンタジー」の中に身を置ける
滞在最初の夜は今年5月にスタートしたばかりの新しいアトラクション、「ウィンジリ ウィル」に参加した。
これは、アナング族に伝わる「マラの物語」を、1000機以上のドローンとプロジェクションマッピング、レーザー光線によるビジュアルと音楽で表現する壮大なナイトショー。
オープンエアの観客席からは日没後まで前方にウルル、後方にカタ・ジュタが遠望できる。
ディナー付きのツアーに参加すれば、ワイングラスを片手にウルルのサンセットを楽しむところから始められる。
「マラの物語」の概略を紹介しよう。
始まりの頃、北の方からやってきたマラの人々(マラはコシアカウサギワラビー。
これをトーテムとする人々がアナング族の先祖とされている)はウルルの辺りに滞在してインマ(儀式)を行うことにした。
マラの男たちは儀式用のポール「ンガルタワタ」に飾りを施して立て、インマを始めた。
女性たちは皆のために食べ物を集め、洞窟にニュマ(種子を使った保存食)を貯蔵した。
男たちは狩りに出かけた。火をおこし、道具や武器を整えた。
そんなとき、西方から2人のウィンタルカの男たちが近づいてきた。
彼らはマラの人々を自分たちのインマに招待した。
マラの人々は、自分たちの儀式がすでに始まっていて止めることはできないと説明し、招待を断った。
落胆したウィンタルカの男たちは仲間のもとに戻り、ことの顛末(てんまつ)を告げた。
激怒したウィンタルカの人々は、マラの人々のインマを破壊するために、悪の化身クルパニを作り出し、マラの人々のところに向かった。
クルパニは移動する間に次々と姿を変え、最後は獰猛(どうもう)な「デビル・ドッグ」の姿になった。
カワセミをトーテムとする女性ルウンパがウィンタルカの人々の動きに気づき、マラの人々に警告したが、彼らは耳を貸さなかった。クルパニがマラの人々のところに到着し、襲いかかって、何人かを殺した。
すさまじい恐怖と混乱の中、マラの人々は逃げ惑い、生き残った者は南へと逃げていった──。
ショーのクライマックスはドローンが立体的に描くクルパニの姿だった。
我々とウルルの間の空中高くに1000の光彩が巨大な「デビル・ドッグ」の姿を形作ったかと思うと、ジワジワと口を開いていく。
逃げ惑うマラの人々の戦慄(せんりつ)がよみがえるかのようだったが、一方で、その光景はこの世のものとは思えぬ甘美な感覚を観(み)る者に与えもした。
翌日の朝、「ウルル・アボリジナル・アート&カルチャーツアー」に参加した。
先住民サラさんの導きで、ウルルのふもとを歩き、この土地の動植物のことや物語、シンボリズムについて学ぶ。
また、後半はアボリジナル・アート特有のドットペインティングを体験するワークショップになっていた。
サラさんの話は、前日の「ウィンジリ ウィル」体験を大いに補足してくれた。
悪の化身クルパニの足跡は、ウルルの表面に溝となって刻み込まれていた。
忠告者ルウンパは岩の表面の出っ張り部分となって今も見張りを続けていた。
「マラの物語」には、始めたことは最後までやり遂げること、人の忠告には素直に耳を傾けること、といった教え(チュクルパ)が込められている。
チュクルパは、処世術だけでなく、歴史、地理、道徳を教え伝えるものであるという。
文字を持たなかったアボリジナルの人々は、歌と壁画、あるいは地面に描く絵によってチュクルパを伝承してきた。
アボリジナルの人々の歴史や世界観を語るとき「ドリームタイム(ドリーミングとも言う)」「ソングライン」という言葉がよく登場する。
どちらも奥深く難解な概念で説明するのは至難だが、イギリスの作家ブルース・チャトウィンの名著の一節が助けになるかもしれない。
〈オーストラリア全土に延びる迷路のような目に見えない道のことを知ったのは、アルカディ(注:アボリジナルの人々と開発業者の仲介役を務めるロシア系オーストラリア人)が教師になってからのことだった。
ヨーロッパ人はこれを“夢の道”あるいは“ソングライン”と呼んだ。アボリジニにとって、それは“先祖の足跡”であり、“法の道”であった。
(略)彼らは旅の途中に出会ったあらゆるもの、鳥やけものや植物や岩や温泉の名前を歌いながら、そしてそうすることで世界の存在を歌に歌いながら、“夢の時代(ドリーム・タイム)”、この大陸をさまよったのである〉(『ソングライン』芹沢真理子訳・めるまーく刊より)
ガイドによると、アナング族の人々は「ドリームタイム」という言葉に違和感を抱いているという。
「それは空想や夢物語ではなく、少なくとも私たちにとっては実際に起こったことであり、事実なのだから」と。
ウルルのふもとにある大波の内側のような形の洞窟で、サラさんが地面に棒切れで彼女たちの物語を描くのを眺めながら私は自分が、未知なのにどこか懐かしい物語の中にいるような不思議な感覚を味わった。そして、にわかにこんなことを考えた。
異なるバックグラウンドを持つ我々旅行者にとって、アボリジナルの人々の物語は優れたファンタジーではないのか?
現実というのは思いのほか多層性をもっている。
自分が見ている「この世界」がすなわち唯一の現実だと思い込むのは浅はかすぎる。
これは、心理学者河合隼雄の言葉だ(『ファンタジーを読む』講談社+α文庫)。
河合はこうも述べている。「すべての人は『二つの世界』に属しているのだが、どうしても一つの世界しか見えない人が多すぎるのである」。
河合の言うもう一つの世界こそがファンタジーのすみかだ。
〈ひとつのファンタジーがわれわれの考えを刺激し、それはわれわれ自身のファンタジーを呼び起こしさえするのである。
素晴らしいファンタジーは、常に何らかの課題をもって読者に挑戦してくる、とも言えるのである。
それは物語としてはちゃんと完結していても、完結した後もなお読者の心を動かし続ける力をもっているのである〉(前掲『ファンタジーを読む』)
そもそも旅行自体が非日常体験なのだが、旅先で力強い物語と出会うことはきっと我々の心に良い刺激を与えてくれるに違いない。
我々はここ数年間、いや応無しに、想像力を押し殺されるような時間を過ごしてきたのだから……。
滞在最後となった3日目の午後は、カタ・ジュタのふもと、ウォルパ渓谷を歩いた後、夕なずむウルルを眺めながらBBQディナーを楽しんだ。
食後はガイドの説明を聞きながら夜空を見上げ、天の川に嘆息を漏らし、南十字星やさまざまな星座を探した。
そこには、地上とは別のもう一つのファンタジーが展開されているようだった。
先に紹介した「ウィンジリ ウィル」のショーはこんな言葉で幕を閉じる。
〈この物語をもちかえりシェアしてほしい。そのようにして私たちはつながり続けることができる〉
ウルル&カタ・ジュタを訪ねる意味がここに集約されていると思う。
フォトギャラリー(本文以外の写真もあります。クリックすると次々とご覧いただけます)
■ 関連サイト
セイルズ・イン・ザ・デザート
https://www.ayersrockresort.com.au/accommodation/sails-in-the-desert
ウィンジリ ウィルなど
https://www.ayersrockresort.com.au
ウルル・セグウェイ・ツアー
https://www.ulurusegwaytours.com.au/tours/
■「街・食・人・ワイン メルボルンとモーニントン半島 いま、オーストラリア旅に出る理由(前編)」はこちら
■ 取材協力
オーストラリア政府観光局 https://www.australia.com/ja-jp
ノーザンテリトリー政府観光局 https://northernterritory.com/jp/ja