東田直樹さんの本をもとに、イギリスのドキュメンタリー監督が撮った映画。

 

なんか、よくも悪くもイギリスっぽいなあ~という印象だった。autisticな人たちの世界とのかかわり方にアプローチしたくて、お芝居でもなんでも、その感覚をビジュアル化しようといろいろガンバっているのを見たけれど、この映画もそこにトライしている感じがあって、雨ってなんだろうとか、電気の音とか、どう感じているだろう、どう見えているだろうと、その五感を探ろうとする感じ。そこはステキだと思う。

 

でもなあ、イギリスの状況ってそこで止まる感じだよねえと思う。せいぜい、そこからトラウマに行く感じだ。それで終わり。

 

結局、出てくる人たちの行き先は?というと、せいぜいがグループホーム、そうでなければ入所施設でおしまいだ。家族以外の人はほとんど出てこない。

 

そうじゃないだろ。

 

そういう意味では、途中から怒りを抑えられなかった。なんかなあ。一所懸命にautisticな人たちの視線に近づこうとする気持ち、よくわかる。私もこの人の脳みそに入って外を見てみたいと何度も思った。そこからその人と一緒にどうやって生きていくかってことにならないと、やっぱり違うだろうと思う。イギリスの人がすべてダメだと言う話ではなく、autismのこと流行っているわりに、決定的に大事なことを見落としている奴がいるってこと。そして現象や人ではなく、こういうのは作り手の問題であって、だからこの監督が最終的にはやっぱりダメなんだと思う。

 

宍戸さんってすごい人なんだなと改めて思った。なかなかいないよね。

 

ファシリテ―テッド・コミュニケーションについては、あれこれ考えさせられる機会はあった。某手法については、ある身体の人が「勝手に言われてびっくりした」と言っていたらしいし、どう見てもあかんとしか思えなかったからあかんと思っている。でもこの映画で出てきた、アルファベットを指差すやり方は、それ自体はとても真っ当に見えたなあ。もちろん、読む方が手を動かす可能性がゼロではないだろうけれど、まあそこまで言い出したら、日本のレジェンドしょうがいしゃだってそういうことになってしまう。そうだよなあ、運動能力のどこかがズレているだけで、絶対頭の中でいろいろ考えているよね。だから何も通じていないように見えても、絶対わかってるんだと思う。どういうわかり方なのかはわからないけれど。

 

本当は、もっと真っ当な形であるなら、ファシリテ―テッド・コミュニケーションもうまく入ってきたらいいのになあとは思う。言葉は大事だよ。本当に大事かどうかは知らないが、大事なときは確かにあると思う。なくたって進める場面は多々あるけどさ。

 

ただ、言葉が与えられていくことをただそれとして寿いで、それで特殊なところに入れて終わりになるのなら、やっぱりダメなんだと思う。そういう問題じゃないだろ。成長させればいいって話じゃない。話したいから、声を聴きたいからやるのであって。その先がなければ、全部話がおかしくなる。

 

難しいね。ここらへん、本当に言語化が難しい。

この映画の作り手も、本当に一所懸命勉強して、ガンバって作ったんだと思う。だけど想像力の限界があまりにも露骨だ。そのことに気づいたとき、作り手もツライだろうなと思うレベルだよ。だけど、全く気付かないんだと思う。だから批判があってもわからないだろう。世界が閉じていて、外がないということは、本当にキツイことだ。話し合うための手がかりがない。