日々の喧噪のなか、気がつくと大好きな父が逝ってから、もうすぐ初盆。そして、一周忌。頭ではわかっていた。毎月の月命日には、急用がなければ実家に赴き、父の前でお経をあげる。そんな日々を過ごしながら、ふと、妻が「去年の今頃、まだ、お父さん元気だったんだよね。」その言葉に、うろたえる自分が、いた。お盆に、少し良い酒を買い、二人で飲んだ。墓参りも、自分の車にいつものように父を乗せ、寺に行ったり、墓にいったりした。その前には、一緒に好きな風呂に行った。

 そうか・・・、父さん、今頃、まだ生きていたんだな。その言葉にうろたえる自分に、うろたえている。

 妻と一緒に、いつか入れるように、納骨堂を買った父。

 でもね、父さん。父さんが骨になり、覚悟はしていたが、「骨は骨」なんだ。坊さんが、納骨堂の下へ、「よいしょ」と、父さんの「骨」を自分たちの前で「がたがた」入れるのをみて、「骨はもの」なんだ。と思った。浄土真宗では、父さんは、「仏」になったので、盆には戻らない、らしい。なら、仏壇に「魂入れ」と称して、「短い」お経を詠んで「布施」をもらっていく、あの儀式は、なんだ?・・・それでも、毎月、命日に、俺が経を詠むのはなぜか?もしかして、父さんが喜ぶかな、とか考えてるからだな。仏になったんだから、そんなことでは喜ばないな。そうなことを考えて、写真の前で、この前は、2回も詠んだ。

 転生輪廻は、修行(魂のスキルアップ、スキルダウン?)のためにあるので、生前の人と再会するためにあるのではない、らしい。

 とういうことで、俺、一緒の墓に入らないかも。だって、そこに、父さんはいない。骨だけなんだから。俺はね、大学の医学部に献体して、そのあと、どこかのんびりするところに妻と、散骨?木の下?、妻と一緒に土に埋めてもらうとか。子供たちには、別に墓参りしてもらわなくていいかな。だって・・・「骨」なんだもの。

 そんなことを考えてたら、父さんが毎日みてたという○○山を窓からみてたら、なんだか、父さんに見えてきた。不思議なもんだ。若い頃は、なんにも感じなかった、あの山が。

 昨日、少し高い酒買って飲んだ。昔、父さんに買っていった「獺祭」の大吟醸。あれ、コンピューター制御で作っているらしいね。あのときも思ったんだ。「あれ、あんまりおいしくない」。今回も、そんなに。何でなんだろうね。

 父さんはいないんだろうけど、お盆前、そして、お盆、父さんを想って、お経詠むよ。心を込めて。それが、俺からの父さんへの「感謝」の手紙だから。