昨日、映画「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」(10月13日公開)の完成試写会に参加。

 

 森下典子著『日日是好日―お茶が教えてくれた15のしあわせ』を映画化したもので、一般客を招待しての公開はこの京都での映画館が初とのこと。

 

 ちなみに原作は未読。あくまで映画から受けた印象でのみの感想になるけれど、最初にまずひと言。

 

「とてもよかった」。

 

(簡単すぎ)

 

 当日は上映前に大森監督、原作者、主演の黒木華さんと樹木希林さんによる舞台挨拶もあって、お得感満載!(笑)

 

 ワタクシ、地上波TVをほとんど見ないので、ネットニュースで名前だけはまま見ていた黒木さんを、当然のように「くろきはな」さんだと思っていた。本当は「はる」さんなのね……ヨメナイヨ?(笑)

 

 映画ではその存在感とあいまって、特別華奢に見えない彼女だけど、やはりそこは芸能人、お顔もとてもちぃちゃい美人さん。その隣の希林さんにいたってはさらに小さくて、お身体の具合が気になるところだけど、お話はしっかり面白く、場を仕切っておられたのはさすが。

 

 お茶の映画だからと、事前に建仁寺で献茶式をすませていたと話しておられたので、どこかの流儀の献茶式に列席したのかしらんと漠然と思っていたけれど、今日の芸能ニュースを見ると、映画関係者だけのヒット祈願を兼ねた献茶式だったっぽい。

 

(ネットニュースに和尚が点てたお茶を、希林さんと黒木さんの手によって茶祖栄西禅師に捧げている写真がのっていた)

 

(建仁寺だから四頭形式? とも思ったけど、普通に点てたお茶ダッタノカナ?)

 

 事前に大声で断っておくけど、茶道の稽古経験はゼロだ。畳の歩き方から気を使わなければならないとか、耳学問的に知っている事柄だけで怖気づいて、今さらやってみたいと思わない(きっぱり)。

 

 ただ、気楽な大寄せ茶会はチケットをいただいたりすればお客としても行く。だから、(大寄せに限るけど)お茶席の雰囲気というのはぼんやりとわかるのだけど、それとていうなればガラス張りの部屋の向こうでおこなわれる「茶道」の世界を、外から「ほほぅ」と門前の小僧よろしく眺めている、そういう立ち位置だ。

 

 そんな私が見ても、この映画は面白かったのだ。

 

 これ、多分実際にお茶をやっている人はもっと深く楽しめるのだろうと思う。

 

 たとえば、主人公典子(黒木華)の目線で描かれる四季折々の稽古風景。畳の歩き方に戸惑うシーンや、多部未華子演じる典子の従姉妹美智子の「どうしてこんなことをするのか」という素人ならではのストレートな問いに、師匠の武田先生(樹木希林)が「それは……そういうものだからよ」(台詞はニュアンス)と答えるシーン、建水(だったっけ? 茶碗だっけか?)をもってすっくりと立ち上がるべきところ、見事にひっくり返っちゃうシーン……(てか、あれ、ひっくり返らずに立てる方がスゴイ、と素人は思う)。

 

 観客席はお茶関係者が多かったのだろう(着物姿の人もかなりいた)、あちこちから「あるある!」的な笑いが起こっていたし、共感をもって笑えるって、なんかいいなぁーと思った(笑)。

 

 映画で一番割合の多かった稽古風景は、二十四節気のコマ割りで見せていく。教室から見える景色、聞こえる音が折々に変化していることをうまく映像で見せていて、それもよかった。

 

 床のしつらいも何シーンも写っていて、ああ、もっと私がワカッテいれば、面白いんだろうなあ~とこれまた、お茶をきちんと学んでいない自分が歯がゆかった。

 

 そういう、目で見て「すぐにわかること」でさえ、深いところはやっぱり分からない自分が残念だなあ、と。

 

 何より。

 

 二十歳の春から始めて24年にわたる典子の「お茶のある生活」は、そのまま典子の日々の暮らしや心の成長録になっていることが、一番沁みた。

 

 ことに、師匠武田先生との心の通いが。

 

 それもまた、目に見える部分、見えない部分、どちらもあって、でも、そのどちらもが響いてくるのだ。

 

 たとえば。典子が就職試験の勉強のために稽古を「サボる」と師匠に電話連絡する(「やっぱりサボります!」という言葉がやけに素直で印象的だった)。先生もそうしなさい、とこたえる。

 

 それでも典子は落ち着かなくて、結局稽古場に来てしまう。快く師匠に迎えられて、茶室に入ると、床には達磨図が掛けられている。

 

 達磨さんがにらんでくれるから……あなたが試験に受かるように……。そんな気持ちでこれにしたという武田先生の言葉に、典子は泣きそうになるのをぐっとかみしめて、掛物を眺めている。

 

 典子が稽古に来ても来なくても、武田先生はきっとこのお軸を掛けたかったから掛けてくれたのだ。

 

 それがわかるから、典子は胸が詰まったのだろう、と思う。

 

 ある時は。結婚間近の婚約者の裏切りを知って、婚約を破棄した典子。数カ月家に引きこもって、お茶の稽古も休んだ。

 

 多分、初めての「お茶がそばにない日々」も、心の底にお茶はあって、ある日典子は着物を来て、心配する両親に稽古に行ってくる、と伝えるのだ。

 

 先生も事情は知っている。だからこそ、変な慰めはいわない。美味しいお茶を飲みに来なさい、とだけいう。

 

(もしかしたら、この台詞は別のシーンだったかもしれない←残念記憶で申し訳ない。「やめたければやめたらいいのよ、それまでは美味しいお茶を飲みにいらっしゃい」みたいな台詞だったの。これもしみじみと、キタ)

 

 武田先生は、自身の師の死にまつわる深い哀しみを背負っている。ある日その話を他の社中仲間から聞いた典子。

 

 その後典子もまた父の死で、同じような立場を経験する。

 

 桜が舞い散るなか、お互いの心の痛みを共有し、泣き、笑い、また泣くふたり。

 

 なんて美しいのだろう。

 

 原作の副題に「15のしあわせ」とあるのだから、こうした「一生の師匠との出会い」は中でも大きなしあわせ、として語られてるんじゃないだろうか、と思った。

 

 お茶を通しておしえられたことは、言葉で語れることから、説明のつかないものまであるのだろう。

 

 映画を見ているうちにそういう「しあわせ」を今のところ経験していない自分は、勿体ないことをしている気さえしてきた。

 

 じゃあ、お茶を今から慌ててはじめればいいのか? それもありだろう。確かにお茶は面白そうだもの。

 

 でも、お茶じゃなくてはいけないわけではないよな、と思いなおした。

 

 最近始めたばかりのお稽古。文字通り箸にも棒にもな力量のうえ、お師匠さまに申し訳ない程の稽古不足の弟子でしかないのだけれど。

 

 それでも、お稽古そのものは楽しい。朗々たる先生の声に聴きほれる幸福な時間(目に見えるならぬ、耳に聞こえるしあわせ)。それを細い糸にして、少しずつその世界を手繰っている現在だけど、「今すぐどうにかなりそうにないから、やめる」なんて考えるのは、やっぱりよそう。

 

 そう思った。そう思えたことが、我ながらよかったと思う(笑)。

 

 今回、俳優陣もそれぞれによかった。長くなったので、その感想は次回。

 

 当日は、今年家元を襲名したばかりの表千家のお家元の姿も。開演前にすーっと入ってこられて、上映後も先に出たりせず、一般客の人波に同じようにまぎれて、(周りはさすがに気づいた人も多くて)いろんな方々からの挨拶にも丁寧に会釈を返しておられる姿が、清々しかった。

 

(映画のエンドロールにあった「応援 表千家不審菴」のテロップのような、さり気なくこの映画を見守る感じがいいなーとも)

 

 

追記:書き忘れてた! 多分三渓園と思われるところでの大寄せ茶会の様子が描かれていたのだけど、そこでの「正客の譲り合い」シーン、あれは、茶道経験のない監督だからこそ描きたかったシーンだと思う(笑)。私も、面白いなあ、って思うもの(笑)。

 

正客の譲り合いはどんな大寄せでも、「あるある」シーン。着物姿の人(と、格好に関係なく男性)がまず狙われるので、私のような質素なカッコ、素人感ありありの人間におはちが回ることはないから、あくまで他岸の火事的に眺めているのだけど、実際これがもめにもめる場面は多々。

 

私が見た中で笑えたのは、「他流でございますから……」と固辞する着物姿の方に、椅子席(つまり正客として正座ができないので末席)にいる、ベテラン感のある人が「お茶人は素直が一番や。素直に座りなさい」とおっしゃったこと。それでも、すぐに決まらなかったけどね?(笑)