母は日本で最初の女性調香師だった。

 

 

君のドルチェ&ガッバーナなんかまだ世に出る

ずーとずーっと前に

フランスでその香水を作ってたんだよ。

 

 

そんな母は鼻も利いたが

耳と目も利いた。

 

 

母は一台のピアノを持っていた。

それはイースタインといった。

 

お祖父様が母に与えたピアノだったが

そのピアノの音色が好きだった母は

そのまま私にそれを弾かせてくれた。

 

そのピアノの鉄骨には

歪なBという文字が刻印されていた。

 

 

 

 

時を経て

長い眠りについていたイースタインを

ある調律師に見せた。

 

「残念ですがこのピアノ、もう調律できません..」

 

という衝撃的なセリフを言い放ち彼は去って行った。

 

 

 

...あれから15年後 そのピアノを残して

 

昨年母が旅立った。。

 

 

 

 

過去にはもうピアノを処分しようかと

話し合った日もあった。

あまり物を取っておくタイプではなかった母が

単なる木と鉄の塊だと宣告された後も

なぜかこのピアノだけはずっと置いた。

そのことは祖父への母の愛であり

このピアノ自体が

祖父から母への愛情でもあったのだ。


母のタンスの中から

たくさんの古い楽譜や

ピアノの鍵が出てきた。

 

私はなんとかこのピアノを

もう一度生き返らせたいと強く思った。

そのことが

母の遺言のように感じたのかもしれない。

 

 

なんとか一人の調律師にたどり着いた。

 

だがしかし、

修理は困難を極めた。

 

 

 

 

私たちの話を聞き悩んだ末に

このピアノを直そうと言った自称若い調律師は

夏の終わりから冬にかけて

8回も我が家へ修理にやってきた。

 

チュー二ングピンという

弦をものすごい力で引っ張っている鉄のピンを

全て交換しなければならないと言った。

その数225本...............

 

しかし弦を外せば

普通は付いてない美しい化粧プレートが磨けると

ほんの少しだけ嬉しそうに言ってみせた。

 

 

 

 

また彼はハンマーがことごとく全て曲がっているとも言った。

このままだと正しく弦を打てないので全て熱で曲げて

正しい位置に戻さなければならないと言った。

 

 

 

 

音を止めるダンパーもガタガタで

やはり全て調整しなければならないと言い

なぜかチョークで鍵盤に線を引いては消し

それを何度も繰り返した。

 

 

繰り返した..

 

 

私は毎回銘柄の異なる

ペットボトルの水を彼の横に置いたが

さすがにネタが尽きかけてきた時、

彼は一言

 

「 先が見えてきたぁ.. 」

 

と静かに呟き

ピアノのロゴマークと同じように

嬉々として楽器に音叉をぶら下げた。

 


最初はこんなにシミだらけだった..

 

 

何十年ぶりにピアノの音が上げられた。

 

ピアノがウォーンウォーンと

長い眠りから今やっと覚めた

と言わんばかりに叫んだ。

 

 

 

 

何十年ぶりの調律で下がる音を

時間をかけ何度も何度も繰り返し上げ

最高音まできて ついに、ついに、、

 

調律が終わった!

 

 

ピアノは冬の西日に照らされていた。

 

 

 

 

本当に..本当に久しぶりに

 

弾いてみた。

 

 

調香師の母が好んだ

いい香りがする音色だった。

一つ一つの音が

私の躰の中に染み込むようで

それはまるで

母が調合した香水のようだった。

 

 

嬉しかった。

 

 

正直もうこのピアノは直らないと思っていた。

母がこのピアノを頑なに側に置いた本当の意味が

今やっとわかった。

このピアノはいい香りの音を出す

 

母の香水だったのだ

 

 ・ : * :・゜’

 

 

 

 

小学生の頃教室が嫌で

ピアノをやめたという夫も弾いた。

 

まさかの歌付きだった..

 

でも、 

予想に反していい声だった。

夫の母がjazzシンガーだったことを忘れていた 汗;

 

 

 

 

 

そして母が見守る中

もう一度ゆっくりと 

私は弾いた。

 

 

 

 

 

一瞬、

 

母がこの椅子に座り

ピアノを弾いているような気がした。。

 

 


 

 

一つ一つ積み上げていく。

 

調香師と調律師って 似ていると思った。

 

 

これで本当にこのピアノが

母の形見になった。

 

 

 

 

イースタインと

 

生きていこうと思った。

 

 

 

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