湯けむりならぬ水蒸気に煙る山々をバックに佇む観音さま。温泉旅館は益田川の対岸までいくつもあり、年季の入った老舗が高いところにある感じです。




 温泉寺は本堂の他に見どころが多く、まず本堂の前にあるのが飛騨屋邸の地蔵堂。温泉寺を再興したのが当地の豪商(木材業)の飛騨屋で、屋敷にあった地蔵堂をここに移してます。


(* ̄ー ̄)v- 飛騨が天領(幕府直轄領)になるまでは地元で造木・木材業を営んでましたがお上がそれを奪う形になり、初代が江戸に出て本格的に木材業を学び青森県の下北半島の大畑を拠点にして事業を拡大。そこからまだ開拓前の北海道に進出して松前藩の認可を受けて蝦夷ヒノキなどを内地に出荷して4代90年もの間 豪商であり続けました。当主は飛騨屋久兵衛という名乗りを継ぐならわしだったそう。

 久しぶりに来たら境内に新しいお堂ができていて、これは何と読むんだろう? 濫觴(らんしょう)堂と読むそうです。


 由来書きを見ると觴(さかずき)に濫(あふれる)ほどの水という意味で、大河ももともとはわずかな水という事だとか。飛騨屋は屋号で姓は武川と言いますが、この武川家は元々は甲斐の武田信玄に仕えていた金山採掘集団なのだそう。それが1582年(天正10年)の天目山の戦いで武田氏が滅亡した際に飛騨に逃れ、この下呂に定住したとあります。1575年(天正3年)の長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗北した武田氏は次第に内部崩壊が進み、天目山の戦いで武田勝頼が自害して滅亡しましたが、末期には離散する家臣も多かったそう。下呂の湯之島村に移り住んだ武川氏は庄屋の養子になり家を再興しましたが、子孫に対して「七代の間は他家より禄を食むべからず」との縛りを科したとか。武田氏家臣のプライドは凄いすね。一族が自立する事に精根を注ぎ、三代目の飛騨屋久兵衛がこの温泉寺を建てたそうです。


 植込みが映り込んでしまったけど、濫觴堂の中央に色鮮やかな不動明王座像が鎮座してます。かつての主家の武田信玄が奉じていたからとありますが、よその地で一から家を立て直すにはこんな覚悟が要ったのでは。


 下呂武川家初代の位牌が武田信玄像の隣に祀られてます。一族の墓所は山門から続く石段の下の方にあり、屋敷跡は今は諏訪神社(かえる神社)になってます。


 座像の隣には不動明王立像もあり、眷属の二童子も共にあり。26人ほどいますが矜羯羅童子と制多迦童子のふたりを従える事が多いすね。


 このお堂を建てるにあたり、本家と各地の武川一族から寄進があったよう。林業で財をなした時は青森県下北郡大畑町が拠点で、北海道の松前や大阪や京都や名古屋に支店があったそう。北海道はまだ稲作が難しい時代だったので、松前藩の石高はアイヌとの交易で得られる昆布や海産物で測られたそう。そこに内地から山師が進出したんすね。既に江戸時代半ばには関西の山師が入っていたそうですが、飛騨屋久兵衛は未だ未開拓の奥地で造木や伐採を行い  北海道開拓の初期の役目を担ったそうです。

(* ̄ー ̄)v- 然れども四代目の時に大畑本店の支配人が3300両もの莫大な横領を行い、松前藩の勘定奉行に賄賂を渡して訴追を逃れ、クビになった飛騨屋の事業を妨害し始める。松前藩はその頃  ロシアが南下してアイヌと交易をしていたのを幕府に伝えておらず、露見して北海道での林業・漁業権を制限されました。そのあおりが松前藩の認可で請負場所(商業特区)を得ていた飛騨屋に降りかかり、林業から漁業への転換をはかるのですが、飛騨屋の使用人によるアイヌへの横暴が募ってアイヌの一斉蜂起(クナシリ・メナシの乱)に発展してしまう。これは松前藩士をひとり含む71名の和人が殺害されるという事件で、松前藩が鎮圧し、それまで完全ではなかったアイヌ支配がこれでより強固なものになったそうです。

 郷士は地元では名士でもよそで横暴・非道がクローズアップされる事がありますが、飛騨屋は北海道のアイヌにとっては憎むべき和人であったよう。外地で幕府の取り決めに翻弄され内部から多額横領者を出したのは飛騨屋久兵衛の本意ではなかったでしょうが、史実では負の面も確かにありました。北海道では松前藩に8000両ものお金を貸し付けていましたが返済されず、四代目の飛騨屋久兵衛が下呂に戻って負債をすべて完済して亡くなったそう。横領犯の元支配人はかなり後に訴追され死罪になったそうですが、経緯をネットで見ると飛騨屋が下北半島に進出した時に世話になった人物の息子とあり、横領が発覚した直後に訴えなかったのはそのためかもですね。何となく大谷翔平さんと元通訳っぽい関係性を連想しました。


 濫觴堂の隣には観音堂(普明堂)。ここには「まんが日本昔ばなし」にも取り上げられた「さるやの石」の言い伝えがあります。


  豪華なお堂ですが奥の観音像は古いものです。この観音像の右前に白い小石が積んであり、これが「さるやの石」。昔むかし ある夫婦が親とはぐれた子猿を飼ったところ、田んぼや畑仕事をよく手伝うようになったそう。特に農閑期に養蚕を営んでいましたが、ネズミが繭をかじるのをよく防いでくれたので「さるや」と呼んで可愛がっていた。


 その「さるや」が寿命で死んでしまい、夫婦は悲しんで近くの森という地区にお墓を作り墓標がわりに石を置きますが、その石がよいネズミ除けになると評判になる。そしていつしか願い事を小石に書いて観音さまに奉納するようになったそうです。石灰石のような小石で、これに願い事を書いてお供えできるようになってました。


 白い小石に取り巻かれてるのが「さるやの石」かな? 人はとりあえず石を積みますね。法華経や涅槃経を一文字ずつ書いて納める病の平癒祈願も似てるかも。


 古い観音像の周りに配された、まだ新しい木仏が可愛らしいすね。温泉寺には円空仏が4躯、木喰仏が1躯あり、そちらは拝観に予約が要るみたい。木喰上人は円空上人より百年ほど後ですが同じような遊行僧で各地に木仏を残してます。少し離れてるけど下呂温泉合掌村に円空記念館があり、そこにも30躯ほどの円空仏がありますね。晩年の作が飛騨に多いみたいです。


 観音像の右側には観音像群。ここは中部四十九薬師霊場の三十七番札所です。


 左隣には開山の禅昌寺八世・剛山祖金禅師の木像も。この温泉寺は下呂富士の中腹にあった湯山薬師堂が前身で、飛騨屋久兵衛が飛騨萩原の禅昌寺から剛山祖金禅師を招いて中興開山としたのだそう。横になってる木仏が気になります(笑)


( ; ̄▽ ̄)v- いやー閑話休題が長かった。それではいよいよ本堂へ。あらやだ看板で湯掛け薬師が隠れたわ?  ここでは薬師如来座像の周りに源泉が湧いていて、柄杓で治したいところにお湯を掛けます。私は腰を重点的に。


 これが本堂。緋毛氈がひときわ鮮やかっすね。渡り廊下で隣の書院に繋がっており、庭園が裏にある造り。書院は予約がないと入れないのかな? 写真検索するとすごくお洒落なつくりでした。


 創建は寛文11年(1671年)。開基は三代目の飛騨屋久兵衛こと武川久右衛門倍良で、湯源が益田川に変わったのを告げた白鷺が下呂富士の中腹に舞い降りたので麓にあたるここにお寺を建てたそう。温泉街を見下ろす場所に建つお寺です。