森真悠さんによる公演レビュー | ダンスと音楽【音と動きがきらめくところ】

ダンスと音楽【音と動きがきらめくところ】

2024年1月26日 18:30開演
会場:西宮市プレラホール
音楽の生演奏と、ダンスを楽しんでいただく時間をお届けします。

 

 1月26日、プレラホールにて行われた『音と動きがきらめくところ』のレポートを今回書かせていただくこととなった。さて、現在2月頭。ということで当日を思い出しながらの記録になる。進級をかけてしまったテストが沢山あったのだ。許してほしい。結果としてここまで引き延ばしてしまったわけだが、公演のことは昨日のことのように思い出すことができる。それだけ、私に爆弾を落とした作品群だった。全体を通して前日弾のレポートでも述べたが私には、大きく危惧していることがあった。それは『舞踊が音楽を食ってしまわないか』ということ。クラシックバレエや脈々と受け継がれてきた盆踊りを始めとして「音楽に合わせて踊ること」が一般的で当たり前として跋扈しているこの御時世、それ以外を見れば私たちは違和感をおぼえることが多いようだ。「ダンス、音とずれていたね」「もっとテンポをきいて」このような言葉を幾度となく耳にしてきた。舞踊は音楽に「合わせるもの」、それが正解であるという常識に私たちはがんじがらめに縛り付けられているのだ。しかし、それでは音と動きがきらめいているとはいえない。今舞台には似合わない。舞踊に付随する音楽はお呼びじゃないのだ。「常識」と相反するこの舞台、明るい未来が見えなかったが私が偏に世を知らなかっただけだった。そこには見たことない世界が広がっていた。

 公演は全部で四演目、小説でいうところの各々の個性が光るショートショートである。こちらでは一演目ずつ語っていく。また、作品名があるのかもしれないがそれを見つける脳と根性が私に備わっていなかったため独断と偏見でつけさせていただいた。

 一演目め【ぼくらの夢はRPG】。こちらは唯一練習風景を見せていただいたものだ。練習風景の感想つまり冒険のあとがき、、となる文章を少し前に書かせていただいた。こちらは自称RPGだと序盤一瞬で死んでしまう役らしい矢木一帆さんと、自称勇者一行だと勘違いしているが一般市民である豊永洵子さんのダンスに自称魔王の竹本玲美のピアノが添えられた作品だ。(こちらのRPGの役割については先日取材させていただいた際に当人らが仰っていたものを参考にした)

 

 そして既に語弊がある。添えられてなんかいない。ダンスと共に流れる音楽は添えられてしまうのが一般的だ。しかし、それでは最初に述べた通り音と動きがきらめいていない。どちらかがどちらかに添付されているだけだ。だが、こんな結末を魔王であらせられるピアニスト、竹本玲美さんが許すはずがない。『敵にも信念がある。私は、魔王。そしてそれを貫きたい』と語った竹本玲美さんの信念なんて安い単語では表せない力があるからこそ今回の「添えられない」作品が成立しているのだ。添えられない、ってことは合ってない、ということ。それは見苦しいのでは、なんて稚拙なご意見に門前払いを食らわせているのはダンサーの豊永洵子さんと矢木一帆さん。こちらのおダンス、なんか、その、蚕から始まる。繭である。繭。人間がビニルに包まれているのだ。その中で、もぞもぞ動く。その様子はさながら繭。外敵から自身を守っているのだろうか、それとも現実からにげてしまっているのだろうか。または、物事はかすんでいるものだ、真実は包まれているものだ的メタファーだったりする別のなにかだろうか。女が「謎の膜」に包まれてモゾついている横に青い服の男が躍り出てくる。怪訝そうにビンビンに警戒している男はやがて「膜」から自力ではい出た女と出会う。スポットライトに照らされた女は黄色い服は着ているようだ。女は楽しくて仕方がないといったように男に無邪気な笑顔を見せる。この世の全てが新しく、この世の全てが大好きだといったように。おいおい、さっきまで「膜」に逃げていたくせに。
 私は前日談で、この膜を世のしがらみだと捉えもう叶うことのない、果ててしまった夢RPGだと記した。幼いころに夢見た勇者にはなれないし、姫にはなれないと。話は飛ぶが青色と、黄色を混ぜると「緑色」になる。緑、という色に自然、雄大というイメージを抱いている方が多いのではないだろうか。我々が生きていくための酸素を作り出している植物の皆さんだって大多数が緑色をしている。黄色と、青色が手を取り合ってできるのが緑色。ネイチャーな色。ダンスの振りは面白いもので、最後は中心におかれたグランドピアノの下へ、膜の中へ二人とも入ってしまうものだった。まだ、諦めたわけではなかった。叶うことのないRPGではなかったのだ。

 一番自然な色で踊る二人は私たちに夢は途切れないことを教えてくれていたのだ。時に膜の中へと、殻へと逃げたいときもあるだろう。無邪気な笑顔だってとらえ方が人によって違うことだろう。警戒を解くことができないときだってある。それ全部混ぜ合わせて「自然」なことなのだ。だから心配することはない。今でもきみは勇者であって姫であり続けている。それに気づいたとき、何事にもなびくことのない「黒い」ドレスを着た「魔王様」奏でるピアノが背中を押してくれていることにも気づいた。

 二演目め、【魅て】。また中二病なお名前を付けたものだ、と自分でも思う。少し恥ずかしいがそれ以外表す言葉を知らなかったのだ。多分、この先も見つけられないと思う。こちらの作品は紫色のドレスを着た女性のピアノに合わせてベージュ色の衣装を着たバレリーナ(仮)が舞う(仮)。(仮)が多すぎないか、そういわれても表す言葉を知らないのだ。ついでに作品の感想を書くためにメモをしていたのだが大きな文字で「開脚自慢」と書いてあった。全く使えない。さて何から記そうか。一言で表すなら大変いびつであった。バレエときいて思い浮かぶのは綺麗だとか優美だとかそういう感想だろう。演者は頭のてっぺんからつま先までピンと伸ばして「私を見て。ねえ綺麗でしょう」と問うてくる。見る者もそれが当たり前で、はいそうですね、とその美しさを享受している。それは、本当に心から美しいと、私を見てとそんな風に思っているのだろうか。そんなことないでしょう。演者は当たり前の感想を抱かれるだけでいいの。満足しているの、納得しているの。観客は磨かれ切ったパフォーマンスに何を求めているの。

 このような疑問を真正面から突き付けてくるのが、二演目め【魅て】である。よく飛ぶ。本当によく飛ぶ。「ジャーン」という音に合わせて飛ぶ瞬間は気持ちよさそうだ。飛ぶ度「ドンッ」という地響きが響く。バレエのレッスン着のような衣装で、今からバレエをお見せしますよ!と言わんばかりなのに中身は似て非なるものであった。きめられた美しさじゃないの。「わたしたちを「魅て」」という彼女たちの叫びが頭の中でこだました。ここまで観客に「魅せ」にきているこの作品だがまだまだ大きな歪みがあった。スポットライトに、入らないのだ。その周りを歩いても決して中に入らない。魅せたければスポットライトの力を借りればいいのにそうしない。私たちの目に当たり前や常識を崩しきったあとの世界はどう映るのだろう。あの舞台の上の黒光りするピアノの下には常識という屍体が埋まっているのかもしれない。そうじゃないとあんなにもいびつな世界が成立するわけがない。だからこそピアニスト古川莉紗さんは青系のドレスを着ているのかもしれない。余談だが屍体があれば紫陽花は青系統の花を咲かせるらしい。これは信じていいことなんだよ。

 三演目め、【みさ】。休憩を挟んでの後半一発目。客席の真ん中に高いはしご。この作品には舞台は存在しなかった。強いて言えば空間全て。舞台上も、観客席もすべてがアクティングスペースだった。ホールのすべてを支配していた。ダンサーの菊池航さん自らが照明を持ち、空間の中心におかれた梯子にのぼったバイオリニストの東瑛子さんを照らす。照らされたその影が奥の壁に映される。その姿はさながらバンクシーのストリートアートのようだった。梯子の上で、弦楽器を奏でる、たったこれだけのことが神秘的だった。梯子にはトライアングルが括り付けられており(なぜだ)時折それを鳴らしながら、謎の間接照明をもって声をだしながらダンサーが躍りまわる。我々観客は上下左右にやさしくヘッドバンキングしながらそれを楽しむ、、、。何だこの空間。儀式か?いやあ、確かに音と動きがきらめきまくっていた。もうキラキラ眩しいぐらいだ。全作品を通して一番きらめいていた。胸を張って断言できる。ついでに何らかの巡りあわせで見るつもりなく事前知識も何もなく、こちらの作品を見てしまった可哀想な一般人がいたとすれば確実に怪しげな儀式と勘違いし、眠れなくなるだろう。こちらも胸を張って断言できる。

 さて。この怪しげなミサ(何らかの信者で観客は生贄な、と言われても納得できる作品だった)一体「何」なのだろう。根幹には何があるのだろう。としばらく悶々と考えたのだが全く分からなかった。自由に考えられる世の中、と言われればそんな気がするし、視点を変えれば新しい一面を知ることができると言われればそうだな、と肯定する。きっとその他の考察を聞かされても全部に肯定する自信しかない。みんな正解だろと叫んでしまう気がする。さけぶ、、叫ぶ、、作中でもダンサーが声を発していた。そういうことなのかもしれない。何を目標にしても何を目指しても何と捉えても構わない。声を出す等できることからやってみろ、梯子の上で弦楽器を奏でるように滑稽に映るかもしれない。けれどもその本質は、影のように神秘的な美しさに包まれている。

 四演目め、【ドキドキ!やんごとなき方たちの恋模様♡】。ふざけているわけではない。登場人物は豊穣の神(デメテル?)なのかなんなのか詳しく知らないか緑の女神(洋装)と、どこぞの姫(赤い羽織)、音楽は紋付き袴を着た男が担当していた。あ、それと男のダンサーが一人。公演を見ながらとったメモ(ほとんど役に立たない)にはヤマトタケルと書いてあった。、、、そう見えたんだろうな。

 こちらの作品も不思議な世界だった。まずは照明が綺麗。綺麗、なんて安っぽい言葉で表してしまうのが申し訳ない美しさだ。姫の動きに合わせて羽織が翻る。手に持つ扇子は姫をより一層輝かせる。そんな幻想的な光景を後押ししているのがそう、照明だ。それは時には月光になり、時には燃えるような夕日になって姫を守っていた。姫はその都度表情を変える世界の第一人者であった。そんな姫の世界に異端者が現れる。緑の洋装の女、豊穣の女神デメテルである。彼女は男を連れてきた。男は少しだけ舞台上のピアノに興味をもったがそれも一瞬。またすぐ女に夢中だ。男には言葉にできない魅力があるようで(ヤマトタケルだと感じた所以である)姫とデメテルはぞっこんである。二人の女をたぶらかすとは罪深い男。三人は羽織の裾を使ったり使わなかったりとにぎやかに踊る。途中女二人が、体のすべてを使いハートマークを作っていた。同じ男を取り合う仲だというのにのんきなもんだ。男はどちらかを選ぶことなく遊び続けていた。ふと目を離したすきだったのか、音楽に気を取られすぎていたのか詳しくは分からない。いつの間にか立場が変わっていた。女二人がランデブーを繰り広げ、男がすっかり蚊帳の外なのだ。男は姫が脱いだ羽織をせっせと運んでいるではないか。一体、何が、あったのか、、。実は男争奪戦にも決着がつく。勝ったのはデメテル。最後姫は羽織だけ残して退場してしまう。、、、いやまだ男、取り合ってたんかい。ライバルと仲良くしていたのも作戦だというのか。怖い。さて、気を取り直してこちらの作品、全てが自然なのだ。だからいつ立場が変わったのか、はっきりわからない。自然に、それが世の中の理だと言わんばかりに変化している。現実世界と何ら変わらない。ラストシーンが最高級な皮肉になっているのがこちらの作品の特徴でもある。やんごとなき方々の恋愛模様はデメテルの勝ち、、なのだがヤマトタケルは姫が忘れられない。その証拠に姫の置き土産である羽織をデメテルの上に置くのだ。(もしかすればこれで二人同時に愛することができる、という恐ろしい思考回路なのかもしれないが。)重苦しいラストシーン、最後まで鳴り響くのは紋付き袴を着た男性が奏でるピアノ。全ての勝者はこの男性、紋付き袴なのかもしれない。紋付き袴は人々の思いの結晶である。その脈々と受け継がれてきた思いはやんごとなき方々の恋愛事情なんか簡単に凌駕する、、といった意味が込められているのかもしれない。これは余談だが紋付き袴の男性、横石雄紀さんは私と同郷でありまさか、兵庫の地で故郷の話ができるなどと思ってもおらず嬉しかった。

 以上が不束者のまとめた「音と動きがきらめくところ」である。私の想像の何倍も音と動きがきらめいていたし、私の生きてきた世界はほんの切れ端にもならない。世は、何と言おうか。でかい、ということに気づいた有意義な二時間だった。

 

※ 文中では森さんが自由に各作品のタイトルをつけていますが、実際は以下の通りです。出演者、タイトル、音楽の順です。

(1)    豊永洵子 矢木一帆 竹本玲美(p)
「IMAGINE」
ドビュッシー(1862-1918)「映像」第1集「水に映る影」、第2集「動き」「荒れた寺にかかる月

(2)    田中早紀 古川莉紗(p)
ラフマニノフ(1873-1943)「前奏曲」嬰ハ短調作品3-2、「交響曲第2番」第3楽章、「パガニーニの主題による狂詩曲」第18変奏を抜粋・編曲
坂本龍一(1952-2023)「energy flow」「The Sheltering Sky Theme」

(3)    菊池航 東瑛子(vn)
「ふるえるあわい」
テレマン(1681-1767)「無伴奏ヴァイオリンのための12の幻想曲」第1番変ロ長調第1楽章ラルゴ
アイリッシュ・ジグ

(4)    後藤俊星 宮本萌 水速飛鳥 横石雄紀(能管、p)
「追憶の天衣」
盤渉序ノ舞より(能管)
徳山美奈子(1958- )「序の舞~上村松園の絵に基づく~」「ムジカ・ナラOp.25」