組織に従うことと個性を発揮すること。これは対立することのように思われがちである。誤解を恐れずに言えば、対立以前に、個性より組織優先である。

 ブログを書いているので、個性を組織に押し殺されていると主張し、個性偏重論者に見えるかもしれない。反対である。だからこそ、苦しいのだ。だからこそ、アイデアを受け止めてくれるツールを欲している。多くの裁判所に勤める者もそうであろう。法律規則通達通知を杓子定規に解する癖が付いている。時には過剰に深読みすることさえ習慣になっている。過剰適応である。そういう真面目な者がほとんどだ。

 横道に逸れることを断りたいが、真面目さゆえの息苦しさに耐えかねて信じられない非行に及ぶ人が出る。良い言葉が思い浮かばないが、拘禁反応の一種かと想像する。真面目さ、杓子定規さと職員の非行を結びつけるのは暴論かもしれない。しかし、最高裁家庭局第三課ができ、矢口洪一さんが事務局のトップになられてからの職員の健康状態はどうなったかが興味があるのだ。矢口さんはミスター司法行政と言われた方で、司法行政の制度確立に尽力された。家裁調査官を担当する第三課も無縁ではなかった。

 確かに、光の部分として研修制度や管理制度は整備され、形のよい調査や報告書は作成できるようになった。それがあって、報告書の開示に耐えられたとも言える。その功績部分は認めたい。一方、そのために指導監督制度が粛々と整備され、管理職と職員の軋轢が増え、精神疾患が増えた一面はないか。管理職と職員が職員旅行や懇親会、赤ちょうちんを日常的に行う姿は激減したと思う。信頼関係の上に本来成り立つ指導監督制度が、信頼関係のなくなった上に屹立している。それに近くなってはいまいか。近時管理職層の精神疾患が増えた実感があり、管理職のストレスたるや大変なものになっているのではないかと懸念する。

 各種データーを開示してもらい、管理職であるなしに関係なく、よき解決案を作りたい。仕事の水準を落とすことなく、しっかり改善する。光の部分は評価しながらも影の部分を克服する方法を専門家を交えながら考えなけばならない。微修正で済めばそれが良いが、コペルニクス的転換が必要なレベル。そういうことだってあり得る。リスクを減らすことがかつては重要であった。しかし、今やリスクを取って変わらないことが、創造しないことがリスクになって来た。産業界はそうである。不良債権処理(未済)がかつては第一のリスクだった。今は収益の出る分野(新領域)に投資しないことがリスクになっている。金融庁の企業に対するリスク管理は変わった。管理と言っても、局面に応じて違う。健康な挑戦ができる組織になってほしいと願う。

 さて、組織に参加することは組織のルールに従うことと同義である。命令権者に従わぬ者がいたら組織は崩壊する。現行法に従わぬ者がいたら、何のための法律かわからなくなる。裁判所に採用されることは100%、組織と法に従うことである。

 しかし、だからこそ、法律が改正されて翻弄されもする。自分から見て良き改正だけではない。良き改正も含むが、そうでない改正も含む改正もあろう。それは、規則通達の類であっても同様である。決まったことは遵守する。

 決まる過程に於いて侃々諤々の議論があるかどうか、ここが分水嶺だと思う。ブレーンストーミング、異論反論、自らの提案が言える制度があるか。各人は普段から自分の意見が言えるように研鑽を積んでおく。私はそう心掛けてきたし、多くの裁判所の者もそうだと思う。意見を聞かれたらお粗末であってもアイデアを述べられるようにと思ってきた。

 私から見て受け入れがたい法律改正があった。裁判所当局も立法過程で反対していた。その思いと裏腹に改正法は成立施行された。理由に納得のいかないまま、当局も変節?を説明しないまま、改正法の実務が始まった。心は引き裂かれたままである。施行日、私はとても暗い気持ちであった。職場はし~んとしていて施行は話題にならない。「天皇陛下万歳」が何の説明もなく、「天皇は国の象徴であり、人間である」と変わったのである。私には異様だった。こんなことで良いのか。私の心は死んでいた。

 もし、侵略戦争を是認する法律、徴兵制が法律で決まったらどうだろうかと想像することがある。裁判所はそれに違反する者に相応の決定をするであろう。胸中はいかがであろうか。外交官杉原千畝、闇米を食べずに亡くなった判事のことを思い出す。

 立法にオブザーバーとしては関われても、積極的に関われないのが司法の性である。一方、行政府も司法に関われない性がある。それこそ、三権分立であり、この国の真っ当さを示すものである。それはそれで良い。一方、それぞれの権力機構の中で養われた英知の交換がどこまでできているかをもどかしく感じる時もある。

 こういうもどかしさがブログを始めた理由の一つである。個性や創造性、情報交換は、思考過程や作業決定過程、法律等の範囲内で許されるものである。チームに参加した以上チームのルールに従うことは当然である。が、だからこそ、チームのルールの決定過程に関わりたい。関われる組織であってほしいと思う。インターネットで東京から瞬時に石垣島の支部へ指示ができるご時勢である。石垣島の支部から瞬時に東京へ意見を述べられる双方向性を大切にしたい。東京の局に全国の職員からアイデアを募集するアイデア募集ボックスや目安箱があると良いと思う。当初は、年に何個かのアイデアの提出を義務付けて習慣化しても良い。帰納法と演繹法の融合である。ヒエラルキーの中で貴重な意見や人材が失われないことを祈る。

 そういえば、1960年代から1970年代に家裁調査官を外局にする。すなわち、ネットワーク型の組織にして、裁判所の外に置く「調査局構想」というものがあったそうである。伝聞でしか知らないので間違っているかもしれないが、ヒエラルキー型組織である裁判所ではスタッフ組織としての性格が強い家裁調査官の専門性が、裁判官や司法行政の管理監督によってうまく機能しないことがあり得る。よって、自由度を高め、家裁調査官が管理監督する組織として議論された構想である。記憶によれば、裁判所の外に出て待遇が落ちるリスクを懸念し、裁判所の内で守られながらやっていく良さが大きいという流れになったと聞いている。このように家裁調査官組織は司法からのある種の独立を目指した時期があった。そのため、裁判所は管理監督する必要性を感じる。また、スタッフ組織としての専門性を伸ばすには家裁調査官出身者による組織経営への関与が必要と考えた。その接合点として家庭局に新たに第三課が新設されたと聞いている。

 なにぶん、これは先輩からうかがった昔話なので、知っている方にはむしろご教授願いたい。