職場の人間関係は、一番のストレスである。これが良好だと少々のきつい仕事も乗り越えられる。何より仕事が楽しい。

 ところが、いきなり仕事が20%増やされて、待遇の改善もなかったらどうであろうか。仕事が増えて家事子育てに支障が出るひとが。健康不安を抱えていた人は発症するかもしれない。仮に目に見える支障がなくても賃金のアップなしにこれが許されるのか。

 裁判所でこのような仕事量の変更が行われた。事情はこうである。家裁調査官の管理職が繁忙なので、調査する事件件数を減らして楽になりたい。そうしないと管理職が倒れるし、管理職のなり手が減る。そういう理屈である。管理職の窮状は理解できる。

 しかし、その対策として、平の家裁調査官の事件負担を無条件に20%増やして良いのか。仕事が増えれば、賃金が増えるのが通常である。平の家裁調査官は何か悪いことをしていたのか。事情があって負担を増やせない平の家裁調査官もいただろう。ところが、全国的にこの変更が行われた。

 私は、労働条件などの変更であり、賃金などの待遇を同時に変更するのだろうと最初は思った。この場合、賃金を20%アップする筋合いと思った。しかし、全く違った。無条件の仕事増であった。組織率が落ちた労働組合は相手にされない。平の家裁調査官の多くは、人事評価や昇進に災いすることを恐れて無言であった。遠吠えしたのは数名である。

 私は疑問を述べたが結局無視された。おかしな変更だと思ったので、労働基準監督署へ相談した。ところが、労働基準監督署は民間企業については相談に乗れるが、公務員については相談に乗れないと申し訳なさそうに言われた。そうか、公務員は守られているように見えて、守られていない。駆け込み寺がないのだと思った。さてと思った。次なる手段に訴えようかと考えた。

 しかし、こんなお粗末で小さな職場の問題を大きくするのは躊躇われた。でも、放置すれば、なんやかやと言ってこれからも小さな変更が行われるように思う。行政府、立法府を引き合いに出すまでもなく、変更は水面下で粛々と進んで既成事実を積み重ねる。それが当たり前になっている。

 裁判所には裁判所の考えがあることはわかる。この事件負担率で何十年とやってきた。それができたのは、管理職の自助努力がある。更に管理職の業務の内容がかつてと現在では段違いに変わって来た。そして、新しい管理育成手法を導入する。IT化も進む。これでは回らないということであろう。 しかし、「今なぜ」「何が変わり」「何をするために」が具体的に見えないのだ。それを「とにかく、わかってくれよ。わかるだろ。」というのは昭和の人情話である。無理である。ここは合理的話し合いが必要だと思う。

 そもそも、管理業務の内容を平の家裁調査官になぜオープンにしないのか。平の家裁調査官は、自分の事件と時間を自己管理している。それが、チームの管理に進展するのだから、要は延長線上の話である。また、十数項目の人事評価点数を付け、総論意見にどんなことを書くのか。それを平官に開示することのどこが問題なのか。むしろ、一次原稿は平の家裁調査官自身に起案させて良いとすら思う。割り切りである。「僕は〇〇さんのことをこのように評価しました。お見せします。これについて、意見感想とそう考える根拠を教えてください。その文章をつけて、首次席に報告します。今後の勤務評価に意見があるときは遠慮なく申し出てください。」と勤務評価過程にオープンプロセスを設ける。これは、自己総括にもつながり、当局の自分に対する期待もわかり良い制度だと考える。いきなり、期末に思いがけない勤務評価をもらって面喰うショックや無意味を思えば、どれだけ生産的かわからない。何より評価に対する信頼性と双方向性に意味がある。

 こういう管理業務の内容及び質量の具体的開示や説明がないまま、事件20%増になった。ここが問題なのである。オープンでないことが面従腹背や創造性を失わせ、メンタル不調を引き起こしかねない。社会学でいう参加の原則である。すなわち、何らかの改革の決定に参加した場合、改革を実現しようとする動機づけが高まる。そういう原則がある。暴論を承知で言えば、管理職にしか明かせない管理業務ならば、そんな管理業務はしない方がよい。管理職にとってもストレスである。個別具体的なことは別としてこんなことをやるのが管理職なんだよということは常日頃からオープンにすべきである。

 家裁調査官組織の内部から相互信頼が失われれば、「チーム〇〇」もあったものではない。