親の権利、子どもの権利という言葉がある。私は二つは相互に絡み合っており、独立しているようでもあり、独立していないとも言えると考えている。なぜ、そのように曖昧なことを話すかというと臨床心理学者の河合隼雄先生の話を聞いたからである。

 河合隼雄先生の話の要旨を引用しよう。曰く「自分とお父さんお母さんは違うと意識するのは思春期前の10歳頃らしい。自分というものを発見し、私はただ一人だと気づくらしい。中には精神的な危機になるお子さんもいる。その特徴的なものに二重人格というのがある。大抵第一人格は皆に好かれるお人よしの人格、第二人格は嫌われる攻撃的なものが多い。ユングは、異常というより、第二人格は第一人格を補完すると見てはどうかと言っています。第一人格に第二人格を取り入れることが大切ではないですかという。この複雑さを一人の人間として生きていかなければならないから、私という人間が生きていくことは大変なことです。そして、どこまでが自分でどこからが他人かというのは単純でないです。今どういう状況にあって、どういう立場にいる人間として自分が存在しており、どの立場から語るか。それで違ってくる。欧米人は自分の考えをばんと言います。日本人は、先ずみんなの中に入っていて、自分の考えを上手にその中に入れ込んでいく。いきなり、自分の考えを話すと危ないと思っている。仏教の根本的な考え方に、自分と言うものはないという考え方がある。そもそも自分固有というものはないから、心配するなということになる。華厳経には自分はないんだと始終出てくる。関係の総和で自分ができており、関係だけが全てであるとなる。しかし、自分はどんな状況下にいるのか、世界はどうなっているのかと言うことは考える。このような話をすると西欧の人はびっくりします。しかし、西欧流、キリスト教的な個人主義を考え直すということが西欧の方にも出てきました。私も状況を考えず、ぽんと自分の考えを話したりします。後からそう考える理由をじっくり聞いてもらう。そういう西欧流をやるようになりました。二つのどちらがどうというのではなくてですね。」と言っている。

 親の権利、子どもの権利、親の意向、子の意向は独立しているという考えもある。そう考える意義はそれなりに承知し、共感する部分も多い。一方でそうでないという考え方も持っている。

 夫婦関係調整(離婚)調停などに関係していると子の意思を把握しましょう。子どもの権利があるのだからということになる。ほとんどの場合、子の意思は何らかの形で考慮されている。協議離婚、調停離婚、裁判離婚に関わらず考慮されていると思う。それが昨今の流れであり、取り扱いである。流れとしてはよい世の中になったと思う。

 一方、親の権利と子どもの権利、親の意向と子の意向を独立したものとして考え、尊重する考え方は、そう古いものではない。欧米的な考え方からすれば、当然であろうが、昔は必ずしもスタンダードではなかった。先に引用したように、華厳の教えによれば、この世界の実相は個別具体的な事物が、相互に関係しあい無限に重なりあっている。その考え方からすれば、個人の意思はあらゆる関係性の総和のようなものである。親の意向、子の意向とはっきり峻別できるものではなく、親の意向の中にも子の意向が入り、子の意向の中にも親の意向が入っている。入り方も様々で、真逆の形で入っている場合もあるだろうし、グラデュエーションのような形もあろう。

 そうは言っても、難しく考え過ぎる必要はないのかもしれない。児童の権利条約第12条第1項によれば、児童に意思を表明する権利を確保し、児童の意見は年齢及び成熟度に応じて相応に考慮されるものとするとなっている。少々乱暴に解釈すれば、一度は子から話を聴取する機会を設ければよい。その話の内容についても、相応すなわち妥当、適切、適当に考慮すればよい。そう解釈することもできる。親権者等の指定について、子の意見は考慮してあげたいのはもちろんであるが、その他の事情が大きく、子の要望に沿えない場合もあるだろう。児童の権利条約は、それを許容していると読めないこともない。家族法自体の文言ではないが、国連の条約でも完全無欠は難しいことをわかっている。

   家族法は変化の時期を迎えている。論理的整合性は重要だが、実態が付いて行かないでは困る。かと言って、困った現状を固定するのでも困る。時代に流されず、後れを取らず、裁判所にはこれまでの実務感覚と知見を信じて一歩一歩、慌てずに進めてほしい。それで良いと思う。むしろ、頭でっかちになることの方が心配である。裁判所に持ち込まれる事案は離婚の約1割である。協議で離婚条件の合意に漕ぎつける事案に比すれば、複雑な事案だと思われる。そういう複雑な事案に対処してきた実績は、日本では家庭裁判所にしかないのだから、その実務感覚に自信を持って、大切にしてほしい。

 その過程で家庭裁判所は何らかのマニュアルや基準を作るであろう。それ自体は否定しない。考えるベースはないより、あった方が良い。一方、ケースは一つ一つ違うこと。何種類かの類型に分けて結論を考える方法を採用してもカテゴライズできない部分に、当該ケースの本質がある。そこを忘れずに、原則的な考え方やマニュアルを踏まえつつ、ケース固有の事情を最後の最後まで見極めることを忘れないでほしい。河合先生に教えていただいたように、自他の捉え方にもいろいろな考え方がある。金太郎飴のように決定を下すわけにはいかない。金太郎飴は所詮工場での話である。裁判所には大いに悩んでいただき、科学的哲学的経験的視点で解決に当たってもらいたい。

 子の意思と言っても、単純ではない。単純さを求めるのは無理筋かと・・・。あれこれ思う今日この頃である。