2016年はスタートしているんですにゃ。

やー。
2015年はねこボラ元年といっていいくらい、自分の生活の中心はボラ活動だったように思う。

そのために、絵画教室もやめたし、お金の使い道も変わって来た。
年末ぎりぎりまで、近所ののらちゃん問題で、奔走し、、体調を崩しかかった。

まー。これは、わたしの人生の考え方、価値観の問題ではあるので、人様にそうしろと言っているわけではございませんし、自己宣伝?をしているわけではございませんが・・。

なんというか、年の初めに思うのは、自分のためだけの人生というのは、つまらないというか、、虚しいものではないのだろうか、、ということでございますにゃ。

もちろん、やりたいことは多少はあります。
例えば、去年、出向いたはしもとみおさんという彫刻家の方の、ワークショップ。

ねこの木彫りブローチの制作をやりた~~い!ということとかですが、、、
(これをマスターして、、、なんとかフリマやオークションを活用し、ボランティアの活動資金にならんもんかなあ?とかねー)

そう、やりたいことの発想が、どうぶつにからんだことばかりになってきている気がします。

わたし自身、20代~は自分のために時間を使ったなーという感慨があるので、もういいや!という気もしています。

結婚してからは、確かに、自分のことを優先はできなくなりますよね、、30代~。子育てするならなおのこと。だからこそ、少しは自分のためだけに、時間を使いたいのだ。
もちろん、それは理解できる。

まあ、自分のためにというか、わたしの場合、自分がやりたいこと、それがどうぶつ愛護にちなんだことなんだろうけれど、結果、どうぶつのためにはなる、ということだあるというだけの話かもしれません。

どうぶつのためになって、自分に何か見返りや利益や恩恵があるのか?と考えると、特別ない気がします。自己満足や功名心?あいやー。あいにくわたしは有名人でもないですしねー。人に誉め称えられ、嫉妬されうらやましがられる機会などありませんからにゃー。

例えば、こどもを育てたら、その苦労はあっても、親子関係がうまくいっていたら、やはりその絆ゆえ、親である自分の心配、身体が衰えたら、こどもが自分の面倒をみてくれるであろうという、やはりそこには、目に見える損得勘定はないにしても、どこかで期待はあるというもの。それが人情でしょうにゃ。
という観点からいくと、親子関係は、ある意味、利害関係が生じる。
実際ボランティア仲間のある方が言っていました。
自分は娘や孫の面倒をみるのは、もちろん可愛いからだけど、、やはり、先々の見返りがあるからだと。
正直、へ~~~・・・と思いました。みなさん、そうだとは思いませんが。
でも、そういう発想があるのも、事実のようであるというのは理解できました。

わたし自身、親の心配はもちろんしていますが、人に聞くと、こどもがいる場合、自分の親より、子どものほうを優先的に考えてしまうのだそうです。
それは、経済面でもそうでしょうし、心理的にも、自分の親より、我が子が大事、、、みたいな感情がつい働くのが正直なところみたいですにゃ。(それは、親は自分の面倒をみてくれた存在でありがたいが、自分が苦労し育てた子どもからの先々の恩恵(老後)を望む以上、子どもを優先して面倒をみたい。という意味があるのかもしれません。負債を払うことより、先の事を考えて投資したいというか)

わたしにはこどもがいないので、そこは実感としてはよくわかりません。

ただ、思うのは、もしかしたら、わたしは、生きる上で、、、どうぶつのことが一番関心があるのかもしれないにゃーということであります。
わたしに親がいても子どもがいても、そのこと自体に関わらずというか。。

先日も母親から年始の電話が入り、最近連絡がないからどうしたのということを言われ、、わたしは率直にボランティアが忙しいからだ。と言いました。

そうすると、決まって言われるのは、、どうぶつ(猫)にいくら力を注いでも、どうぶつがあんたの面倒をみてくれるわけじゃないでしょ、身体を無理してまでやるんじゃないと言われました。
(ちなみに、うちの親はお金に余裕のある人たちではないので、わたしを含めた娘達の支援がないと生活できない人たちです)

健康を気遣ってくれるのは、誰に対しても有り難いと感じはしますが、、、面倒をみてくれる~のくだりは、???でしたにゃ。
まー。言いたいことはわかるんですが、
わたしはだいたい、何かに対して、、保険や投資のような感覚というのがよくわかりません。

人間関係は基本的に協力し合うものという理想があるので、利害関係のように、みる感覚もありませんし。

誰でも生きていて、人様のお陰だと痛感するような出来事はあると思いますから、自分だけで生きており、他人は自分を生かすための道具のようなものに感じる方というのは、、よくわかりません。

なんとなく、そういう感覚のある方は、人に迷惑をかけられたりすると、ムカムカしだし、自己中心的な言い分で、自分は迷惑をかけない、だから、お前もかけるなみたいな言動になり、そういう考え方の人は、まずもって、完全無欠な装いをし、自分の弱点を隠そうとし、他人に攻撃的な態度をつくりがちですな。

人が生きていく以上、、だれにも迷惑をかけずにいるということが、果たして可能なものでしょうか・・?

根本的に、そういう考えの方達は、自分は何も迷惑をかけないのだから、何故、迷惑をかけられなくちゃならんのか、、、?と自己正当化があたりまえのような感覚があるように感じます。

例えば、ねこに自分の庭先で糞尿なんかされたら、怒り爆発!のらねこは許せん!という発想につながっていくような気がします。

わたしなどは、自分が生きて活動している事自体、酸素をすって、二酸化酸素を排出しているんだなーと、、なんか、存在している事自体、罪なような気がしてきてしまいますが。
(植物の存在が素晴らしいと思うのは、光合成も含め、逆だからどす)
そういう気持ちが根底にあるせいか、
のらちゃんの糞くらい、ふーん。。てなもんにゃ。

手があるんですから、掃除すりゃーいいし、虐待にならない程度に、庭のお花を守るように、知恵をしぼり、のらちゃんが来ないように努力すればいいだけの話と、思うんですが。。。(調べればありますよ)
自分たちの存在(生活)が素晴らしい人たちには、のらちゃんのようなよるべない存在すら、我慢ならなくなるわけですにゃ。

しかし、わたしはだからといって、自分は違う、そういう人達を見下すとは思わないわけです。

だって、根本的には、自分も人間存在である以上、驕慢、尊大な方たちとつながっているわけです。
同じ穴のむじなだよ。と思ってしまうわけです。

それが一番悲しいから、わたしはたぶん、どうぶつたちが立派に見えて、、、そのどうぶつたちの力になりたいと思うんだと思うわけですにゃ。

彼らの生き様は、いたってシンプルですから。

自分たちの存在は、自分たちの種の一部であり、個をそれほど重んじていません。

なんと、素晴らしい。

我々人間は、知性がありながら、それをほんとうに、人間も含めたいきものの全般の為に生かしているのでしょうかにゃ。。。?

北朝鮮は、年明け早々、核実験を行って、資本主義諸国へ対し、過剰な防衛を演出してみせます。

人間にほんとうに、知性があるのなら、核武装する必要があるのでしょうかにゃ?

こういう現実ひとつみても、自分の種である人間を手放しに賛美するこころにはなれません・・。

だからといって、過激な思想を信奉する気も毛頭ありません。

というわけで、、、
次回は、数年前からクリスチャンに回帰したおはなしにつなげたいと思っておりますニャ~。