まー。いろいろな考え方ややり方はあります。もちのろんろん。
だけど、やはり納得できないやり方というのはありますわにゃ。いきものの命が関わっている場合。
人の説得とは難しいものです。
対立し、決裂するのは、簡単なことで、ぶつかるごとに、そうやっていると、結局は、人は人、自分は自分。関係ないよ。
という結果だけで、なんの成果もあがりませんにゃ。

人との関係を割り切るというのは、ある意味、理解が得られない場合、そういう風にして、自分を納得させる為の、結局は言い訳というか、自己を正当化するための切り捨てのような気がします。

確かにいろんな考えの人がいます。

しかし、物事の価値観の違いは個々人あっても、道理というか道徳、人の道というのは、共通の認識だと思うのです。
(わたしは道徳というのは、理想とは思いません。人という愚かないきもののための道しるべ、
人間のできる範囲の先人の教えと思いますから、自分さえその気があれば努力できる範疇の教え、行いだと思っています)
いい年をしても、それに反する言動を、羞恥心のみじんもなく、堂々とやってみせる人・・・・そういう大人をみると、やはり、寒々とした想いにかられてしまいます・・・。
やはり自覚を持って、反省し、自らを変えていかなければいかんのだよにゃ、、、自戒も含めて、そういう人を眺めているとつくづくそう思います。

年を重ねるという事は、何も体力がおちる、細胞が老化するということではない、
経験を積み重ねることにより、物事の分別が多少はついてくる、若いときにはできなかったことでも、少しずつできるようになる・・・成長をしていくということなんだと思います。

身体が衰えるからといって、精神も退化する・・・というのはあまりにも人間、お粗末すぎるという気がしますよね・・。

人同士が交流する意味は、お互いにいい影響を与え合う、そして、いろんな意味で、反省し、成長の機会を得ることだと思います。

井の中の蛙のような人は、結局、表面的に人とつき合っているだけで、他人を、自分の都合のよいように利用しているにすぎないと思います。

私は、飼い主のいない猫のボランティア活動を通じて、リレーションシップの大切さ、また難しさを体感し、知らず知らず勉強になっています。

他人を利用することでしか、ひと付き合いのできない人達、、
ひいき目を持ち合い、表面的には親しくみえたとしても、その関係のガラスのような危うさ、何かあればすぐ壊れてしまうような不安定な関係しか持てない人達・・・・

本質的に他人と協調し、尊重し、厳しいことでも助言し合うことで成り立つ信頼関係を築けないというのは、、、
ともすれば家族という甘え合う馴れ合いの関係以外の、
他人との関係を築けないとしたら、、
真の友人を一人でも持てないとしたら、、、
それはほんとうに寂しい老後生活になるという気がします。