駅で配っているヘルプマーク。持病仲間が送ってくれたもの。

 

電車で仕事に出かけるときなど、足の痛みで、立っていることも困難なら、

つり革や手すりに頼ろうにも、手も肩も痛めていたので

なるべく当駅始発など、座れる電車を利用していた。

 

しかし通勤通学ラッシュにぶつかってしまって、

ひたすら我慢して立っていたり、仕方なしにつり革にぶら下がって

後々、手や肩が腫れあがってしまうこともあった。

 

私は結局、ヘルプマークをつけることが一度もできなかった。

どうしても座りたくなったときは使おうと思って持ち歩いていたけど

目の前の人に持病をアピールにする気持ちになれなかった。

 

久しぶりの友人に会ったりすると、

「足どうしたの?」「大丈夫?」などと、驚いたり心配されることがよくある。

それが良心からであっても、非常にみじめで、腹立たしいのだ。

 

大丈夫ではないのだから。

どうしたもこうしたも、何年もずっと苦しんでいるのだから。

痛みから逃れようと、必死であがいているのだから。

 

楽しく過ごしたいと思っているときに、

病人扱いされたり、手取り足取り介護されたりすると、

とても悲しい気持ちになるのだ。

 

かといって、全く気を使われなかったらそれも困る。

例えば、

靴を脱ぎ履きする素足で歩く

階段上がり降り、坂の上り下り、砂利道、

座るところがない、重たいものを持つ、

ペットボトルを開ける、上着を脱ぎ着する

など、ごく普通のことが、できない。

 

心配されるのは嫌だけど、気を使ってもらえないと困る。

自分勝手な言い分であることは重々わかっているのだが。

 

ごくまれに、困ったときそっと手を貸してくれる方に出会うと

涙が出るほど、うれしかった。

まさに地獄で仏の心境。

その慈悲深さに、畏敬の念がやまないのである。

 

人は見た目にはよらないもの。

元気だったら、そのような素晴らしい方に出会っても

気づきもしなかっただろう。

 

気を病むと書いて病気と読む。

持病を通して、色々と複雑な心境を味わった。

元気な時には単純明快に生きていて、心のひだを解せず

暴力的なまでに無関心で無頓着だったのだから

少しは人間的に成長できたのではないだろうか。

 

最近はおかげさまで、電車やバスで座れず、多少揺れても踏ん張れるし、

つり革につかまっても、後から手首が腫れあがることもなくなった。

それでも体力がおばあさんレベルなので、つい座りたいと思ってしまう。

まだまだリハビリには時間がかかりそうだ。