著者 は マルクス・ガブリエル さん。
訳者 は 大池 惣太郎
(おおいけ そうたろう) さん。
翻訳 協力 は 柿並 良佑
(かきなみ りょうすけ) さん。
◇ 224ページから。
○ 訳者 解説 大池 惣太郎 ○
〈 中 略 〉
ガブリエル に よれば、
アート 作品 が 何 であるか を
事前 (じぜん) に 決めることは
誰 にも できない。
なぜなら、アート 作品 は、
特定の 見方 や 秩序に 属さず、
それ 自体が「 絶対者 」として、
独自 の秩序 (ちつじょ) そのもの
として 存在 している からだ。
違う 観点で 言うと、
アート と 出会うとき、人 は
作品 の 外 から それを
眺 (なが) めている のではなく、
その 作品が 自分で 用意した
秩序 のなかに 巻き込まれている。
それこそ が、「 アート の 力 」
と 言う べき ものだ、
と いうのが、この 本 の
中心 的 主張 である。
どのような 論拠 (ろんきょ)
に よって ガブリエル が
そう 考えるのか については、
あとで 見るとして、まず 先に、
そうだ とすれば そこから 何が
言えるのか、訳者 の 見解 を
はっきり 述べて おきたい。
アート 作品 が 何で ある か が
根本的 に 決まって いない
と いう ことは、
自分 が 現 (げん) に アート作品 と
どのように 出会ったか について、
外的 な 基準 で 誰か から
文句を 言われる 筋合 ( すじあい )
ではない、ということを 意味する。
このように 言うと 誤解 (ごかい)
される かも しれない。
これは、「 アート は それ ぞれ
好き 勝手に 感じれば いい のもだ 」
とか、
「 ある 作品 を どう 感じ
理解 しようと 私 の 勝手 (かって) だ 」
と いう こと では
まったく ない。
その 種 (しゅ) の 言い草 (いいぐさ)
は、むしろ アート と
出会った ことも なければ、
出会う つもりも ない 人の
言い分 ( いいぶん = 言いたい 事柄 )
である 場合が ほとんどだ。
自分 の 恣意 (しい) や 気分 で
好き 勝手にアート作品を
受容 (じゅよう)できるなら、
アート作品 は それこそ
真面目 (まじめ) に
捉 (とら) えるに 値 (あたい) しない。
本書 が 示唆 (しさ) するのは、
それ とは 真逆 (まぎゃく) な
ことである。
ガブリエル によれば、
アート 作品 と自分 が
どう 出会う のか を
決めるのは、アート 作品 の
方 (ほう) だという。そして、
( ここ が 1番 重要 な 点だ ) 、
作品 と 出会うという 出来事 は、
作品 に ついて 何か 自分 なりの
意見 や 観点 を 持つ という
ことでは ないのだ。
そうでは なく、それは
そのまま 作品 の
《 存在 に 立ち 会う 》
と いう ことなので ある。
そう である 以上、自分 が
たまたま 作品 と 出会ってしまった
なら、人 から 見て どれほど
荒唐 無稽 ( こうとう むけい ) な
出会い方 で あろうと、それは
真剣 に 捉 (とら) え、《 考える 》
に 値 (あたい) する ので ある。
訳者は アート や 美学 の
哲学的 研究者 では ない ので、
この 本 の 議論が 破綻(はたん)
なく 成立 しているか どうか、
はっきり 断言 (だんげん) できない
ところ が ある。しかし、仮 (かり) に
破綻 が あった としても、ガブリエル
の 議論 が 意味 する こと は、
素晴らしい こと である と 思う。
アート 作品 が ラディカル に
未 決定 であり、自分 が 出会う
ことを 通じて のみ それが 存在
する のだ としたら、なおさら
アート 作品 に 触 (ふ) れたい、
出会い に 行きたい と、
私は 考える からだ。
〈 後 略 〉
*ラディカルとは、
一般的には、ラジカル。
英語:radical
ラジカルとは、急進的
という意味である。
簡単に言うと、急いで目的など
成就するということである。
出典 : フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』
□ 参考 文献
「 アート の 力 美的 実在論 」
マルクス・ガブリエル 著
大池 惣太郎、柿並 良佑 訳
堀之内 出版 発行
https://youtu.be/wW0xyLQBAK4