言葉の壁を越えて(後編) | 四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋

四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋

音楽や楽器とはおよそ縁のないまま四十路を迎えた中年男性がヴァイオリンを習い始めた。
このブログは、彼の練習部屋であり、リスニングルームであり、音楽を学ぶ勉強部屋。
整理の行き届いた部屋ではないが、望めば誰でも出入り自由。
どうぞ遠慮なくお入りください。

 最近の記事にも書いたのだが、基礎練習を素っ飛ばして、発表会に向けてその曲ばかりを練習していると、その曲に対する思い入れはもの凄く強くなる。前回弾いたAllaRusticaへの思いもそうだが、いまレッスンを付けていただいているCorelliのCiaconaに対する思い入れも相当なものだ。今回のレッスンでそんな話をしていると、先生が「音楽には国境はありませんから」ということを仰る。言葉が通じない外国人の人と合奏した後に、何か心が通じる思いがするというのだ。外国人の方は総じて感情表現がオーバーなので、弾き終わった後に「Oh!」とか奇声を発してハグしてきますよ、などと仰る。


 そんな話を聞くと、私も無性にそういう経験をしてみたいと思った。言葉の通じない外国人と一緒に音楽をやって、音楽だけで心を通わすようなことを疑似体験してみたい。このブログが誰か日本語を知らない人にも読まれて、その人のコメントが日本語に翻訳されて表記され、そこからブロ友になって、いずれバヨ会をいっしょにやって、それぞれに思い入れのある曲を弾きあう。いつかそんな日が来ないだろうか。


四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋  私の先生はもちろん大学で音楽を専攻されておられたのだが、ドイツへの留学経験もお持ちだ。最近、野球選手やサッカー選手が国境を越えてアメリカやヨーロッパに活躍の場所を求めていくケースが珍しくなくなったが、音楽の世界はもっと昔からそんな国際交流が盛んだった。日本人の演奏家が海外の演奏家に師事したり、日本人の指揮者が海外のオーケストラでタクトを振ったりするようなことは、グローバル社会がどうのこうのと声高に語られる前から普通にあったと思う。

 そういう時って、言葉は壁にならないのだろうか。いつも先生のレッスンを受けていて、先生が仰る日本語もかなり高度な表現を含んでいる。私のような素人相手でも、曲が完成に近づいてきて表現の繊細なところをどうかしようとなれば、普段の会話ではあまり使われないような微妙な言葉の表現からその機微を感じ取って弾くようなところもないわけではない。ならば、プロ同士の会話ともなれば、どれだけ高度な言葉が交わされるのだろうか。
 けれど先生によると、言葉はあまり関係なかったらしい。言葉ではなく、ジェスチュアや顔の表情でだいたい分かるそうだ。言葉の部分も音楽用語が散りばめられていて、そこだけはわかるので何とかなるらしい。ドイツ人先生も、普通は気を遣って英語で話しているらしいけれど、話が盛り上がってくると突然ドイツ語にコードスイッチするらしい。それでもそこで実際に顔を見て話を聞いていればわかるそうだ。


 言葉が通じないと思うと不安で仕方がないのだが、音楽で通じるという話しをされているときの先生の顔は、とても嬉しそうで、自身に満ちていて、いままで見てきた先生の顔の中でいちばん輝いてさえ見えた。それはもう言葉で説明するものではなく、音楽の世界に生きる方の、おそらく音楽の世界に生きる人にしかわからない本質を垣間見たように思えた。


 私の年代にとって21世紀というのは夢の時代だ。子供のころに見た図鑑に描かれた「未来の街」では、透明なチューブのような道路の中をクルマが飛んでいたし、腕時計のような電話には相手の顔が映し出されていたし、地上に建てられた超高層ビルや海底のドームの中に人々の生活があった。実際に21世紀を迎えて、そのうちのいくつかは現実のものになった。

 一方で、言葉の違いは、人類がバベルの塔を築こうとして神の怒りを買ってからずっと人々を分断してきた。その壁を越えるようなことは現実にならないだろうか。せめてネットの会話だけでも。そして、そこで埋め合わせられない心の壁は音楽によって埋めていく。現に音楽は、何百年もの間、言葉の壁を越える共通言語として機能してきたのだから。