四十路テナライストの独白 | 四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋

四十路テナライストのヴァイオリン練習部屋

音楽や楽器とはおよそ縁のないまま四十路を迎えた中年男性がヴァイオリンを習い始めた。
このブログは、彼の練習部屋であり、リスニングルームであり、音楽を学ぶ勉強部屋。
整理の行き届いた部屋ではないが、望めば誰でも出入り自由。
どうぞ遠慮なくお入りください。

 霊感プロジェクトの練習会が富山であった。練習会には、いつも富山からお越しいただいている方がおられるのだが、ご出産が近いということで、富山に行くことになった。正確には、富山に行く提案はご出産がわかる前からあったのだが、ご出産とそのあとの育児を思うと、しばらくはご一緒することもできないかも、ということもあって、我が家の世論を振り切っての出張練習になった。

 霊感プロジェクトはおめでたラッシュ(といってもお二人だけなのだが)だ。それぞれの家庭の中での夫婦の微妙な力関係にもよるが、子供が小さい間というのは、なかなかお出掛けも難しい。おめでたはおめでたなのだが、しばらく合奏というわけにもいかないと思うと、寂しくないわけではない。
 私の場合は、子供が小さい時でも妻がお出掛けするときは子供とお留守番というのもよくやった(方だと思う)が、父親がいなくても平気な子供が、母親がいないと不安になるというのはよくある話。うちの妻も、出掛けていても気になるからと(それだけ私が信用されていないということなのだが)、夕食までには切り上げて帰ってきたものだ。それが、上の娘が3歳になり、ピアノを習い始めたのを切っ掛けにヴァイオリンを始め(正確には「再開」)、そして今日に至る、となっている。

 子供が切っ掛けで中断する人、再開する人。
 それなりに思い入れのある趣味でも、当然、優先順位の第1位ではないので、家庭の事情や仕事の都合に翻弄されながら、しばらく中断したり、ちょっと風呂敷を畳んだり、といったことを繰り返しながら、「子供のため」とか「これぐらいしか趣味らしいものはないから」とか「ボケ防止に」とか何とか理由をつけて続けていくことになる。

 そんなことを思いながら、趣味で続けるヴァイオリンってなんだろうかと考えてみる。
 もし、いま私がヴァイオリンを弾いていなかったら、何か一生打ち込める趣味を持たなければ、と焦っているかもしれない。「こうして毎日、会社と家を往復するだけの生活。家族も離れて行って、会社も定年になった時に、自分に何が残るのだろうか」などと考え、何かしなければという強迫観念に怯えていたかもしれない。けれど、いまヴァイオリンを弾いていることで得ている満足感は、自分が老いた時に何かやることがあるという安心感ではない。自分が老いた時にヴァイオリンを続けていられるという保証はどこにもないのだ。最近、身体の衰えを感じるようになってきた。特に目の衰えは自覚しやすい。自覚はしにくいが、おそらく耳もだんだん衰え、いくら練習しても音程が取れなくなったり、いやそればかりか、1曲弾く間、立っているのも辛くなるような時がくる。それよりも何よりも、もうすでに平均寿命の半分を生き、この命がいつまであるかもわからないのだ。

 若い時には「将来の夢」を思い描き、10年後の自分を想像してその時を生きてきたものだが、いまは違う。若い時以上に、いま生きているこの時点が大切なのだと思う。いや、若い人でも同じかもしれない。高校球児たちが、野球をやっていれば将来一流企業に就職して安定した生活ができると思っているわけでもないだろう。中には、僅かな収入であっても野球ができるという魅力を求めて職業を選択している人もいるはずだ。そうやって、その時その時に自分ができることに全力を注いで生きてきた人こそが、人生を語ることができる資格を得られるのだと思う。

 私は男性なので出産を経験することはできないが、育児はそれなりに経験したと思う。「しなければいけない」というのではなく、女性の働く権利と同様に、男性にも育児や家庭に関わる権利があるのだという思いで関わってきた。子供たちが大きくなったいま思うと、あのころのような子供との関わりができるのはその時しかなかったと思う。そして、いまの子供たちとの関わり方も、10年後にはない関わり方なのに違いない。

 将来のために今を犠牲にするのではなく、いまを精一杯生きることで将来が拓ける。その「自分のいま」にヴァイオリンがあることを嬉しく思う。




≪おしらせ≫ 霊感プロジェクトの音源アップはしばらくお待ちください。