ブログネタ:人生一番目の記憶は?
参加中 押入れの上段は果てしなく高かった。さくらんぼを食べるたび、いつか桜の芽が出ることを信じて、集めた種を花壇に蒔いた。無理して登った押入れは足がかりにした下段の布団をぐちゃぐちゃにして怒られたし、桜がひっそり芽を出す頃には次の遊びに夢中だった。
戻りたいとは思わないし、戻れるとはなおさら思わない。けれど、私が年をとって、遠い過去のことしか思い出せなくなった時、壊れたオルゴールのようにいつまでも繰り返し口にするのは、もしかしたらこの頃の思い出かもしれない。
年の頃は3つから6つ。つばなれのはるか手前、物心つくかつかないかの頃、その時期のあたたかな記憶を、この本はいっぱいに吸い込んでいる。
小さな女の子の毎日だ。家族は父と母と一回り年の離れた姉、五つ年上の兄、それに手伝いの女性が何人かいるらしい。姉も兄も一緒に遊ぶには年が離れすぎているし、父母は忙しい。チビと呼ばれる女の子は、だからひとりで放っておかれることが多いが、それでもチビが退屈することはめったにない。
小さなチビにとって世界は面白いものに満ちている。雨の日の電線は水玉レースの競技場だし、レンガを削った赤い粉はとんがらし屋さんのとんがらしになる。ごまよごしのごまだれをまぶしたおにぎりは、ごまよごしよりもおいしいし、大工さんの足元からもらってきた薄い鉋屑は宝物だ。
家族に「蛸年生まれ」とからかわれるほどの甘えたがりで、母親の羽織の裾や袂をくしゃくしゃにするまでまとわりつくかと思えば、母親との買い物先で出会った貝売りの小母さんが気に入って、勝手に弟子入りする行動力を見せて、親を慌てさせたりもする。
戦前の、おそらく東京の下町のどこか。昼下がりの町を行商人が歩き、少し足を伸ばせば大川に行き当たる所。まだまだ月見や節分、端午の節句などの年中行事が色濃く残るこの土地には、季節は今よりずっと鮮やかに訪れる。
移り変わる季節の中をチビは生き生きと駆け回り、旺盛な好奇心で辺りを見回してはためらうことなく手を伸ばす。時には目算を誤って、つんのめることもしばしばだが、そんな時は母親をはじめとする大人が微苦笑と小言とともに抱きとめてくれる。ことに、何の縁もない大人がチビを気にかける様は無造作なくせに自然な人情があり、いつも胸の奥が温かくなる。
それにしても、この人はどうしてこんなによく覚えているのだろう。幼い頃の出来事をただ覚えているだけではない。その時の皮膚感覚、心の動き、ものの見え方までもをはっきりと記憶に焼き付けているのだ。手の届かない悔しさや、今考えると空恐ろしくなるほどに澄み切っていた眼差し。焼芋の包みが体を離れる瞬間の、一瞬の冷えまで覚えているのだから恐れ入る。そして、その感覚を文章に書き表すことができるというのが更に奇跡的だ。
どのページにもあの年頃の、切なくなるようなきらめきがいっぱいに詰まっていて、経験したことのない出来事でさえひたすらに懐かしい。チビがいくら失敗して、叱られても、読後感はいつも温かで、幸福だ。きっと、今の作者が感じる幸福感がそのまま作品をくるんで、温めてしまったのだろう。
ひたすら鮮明だった世界の記憶を、懐かしい幸福感でふっくらと含め煮にしたような作品で、書棚の片隅にいつも置いておきたくなる。
『子供の領分』
藤田順子 著
アニメージュ文庫 V-062
徳間書店 1990年