ブログネタ:性格を形、角度で表わしたら?
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信長に従って各地を転戦する。近江 小谷城 で浅井長政 を滅亡させたとき、その妻女であった妹お市 、茶々 、初 、於江与 を保護している。天正 3年(1575年 )の越前一向一揆 鎮圧、天正5年(1577年 )の雑賀党 攻め(紀州征伐 )にも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。後に信長の長男信忠 の補佐を任されている。
天正10年(1582年 )の本能寺の変 で信長が死した後は豊臣秀吉 に従い、伊勢津城 15万石を領して「津侍従」と称された。天正11年(1583年 )には甥信孝 らと対立し、柴田勝家 や滝川一益 を攻略している。
天正18年(1590年 )、小田原征伐 のときに北条氏政 ・氏直 父子の助命を嘆願したために秀吉の怒りをかい、文禄 3年(1594年 )9月に至って改易 された。改易の理由として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたためとされる。その後は剃髪して老犬斎と号し、京都の慈雲院に隠棲したという。
その後、近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆として復活し、慶長3年(1598年 )6月には丹波 柏原3万6000石を与えられる。
慶長5年(1600年 )、関ヶ原の戦い では西軍に属して丹後田辺城 攻撃などに参戦したものの、戦後、徳川家康 は信包の罪を問わずに所領を安堵された。その後、信包は大坂城 にあって姪孫 である豊臣秀頼 を補佐したが、慶長19年(1614年)7月17日、大坂冬の陣 直前に大坂城内で吐血して急死した。享年 72。片桐且元 による毒殺の噂が流れたが、定かではない。家督は3男の織田信則が継承した。
徳川家康に詰問され西軍に付いた信包はこう答えたそうです
「年若い秀頼殿が不憫で 見捨てることができなかた。」
この言葉で許されたのです
人間最後に物をゆうのは 『人柄』です
丸くなりたいものです