オール・マスクの国に生きて | 野口剛夫の音と言葉

野口剛夫の音と言葉

音楽家・野口剛夫が日々の活動の中で感じたこと、考えたこと

 先日、ドイツのオーケストラの来日公演を聴きに、久しぶりに都心のホールに足を運んだ。

 ホールの入り口で、検温をさせられたが、その後も何度もマスクの着用をスタッフから求められた。

 なぜなら私はマスクを付けないからである。日頃から必要のある人、風邪気味の人がマスクを付ければよいと思っている。現在のように、マスクをすることが、常に周囲から圧力をかけて求められる時には、自身の意思表示も兼ねて、あえてマスクを拒否、付けないことにしている。

ホール内は聴衆が千数百人はいただろうか、私を除いて全員がマスク星人で満員の状態であった。

 で舞台はというと、このドイツのオーケストラのメンバーで、マスクを付けている者は一人もいなかった。オーケストラと聴衆の全体を眺めると、それは実に奇妙な不思議な光景と言ってよかった。

 もう新型コロナ騒動が起こって3年になろうとしている。その間に、往来はマスク星人によって埋め尽くされてしまった。屋内でも往来でも、たとえ一人でも、自転車に乗っていてもマスク姿なのには呆れてしまう。

 最初は得体のしれない恐怖に駆られた人たちが、とにかくマスクしようとなったのは理解できなくもない。私は最初からいろいろ情報を集めて考え、強めの風邪の一種だろうとしか思えなかったので、マスクはしなかった。全員がマスクの電車の中にも、マスクなしで乗り込み、この自分の姿を見て、どんどんマスクを外す人が増えてくるものと思っていた。

 もう死者数も他の風邪以下で、張子の虎であることが明らかになっているコロナ。以前だと蛇蝎の如く忌避されたコロナの陽性反応者も、それを平気で公言するようになり、世間もかなり変わってきた。ひょっとしたらコロナ以前の状態に戻ってくれるのかと思いきや、一つだけ、全く変わらないものがある。それがマスクなのだ。

 また、これが世界的なものではなく、日本特有の現象であることも不思議だ。もはや、日本人は世界には気兼ねしないのだろう。でも、周囲の人には気兼ねしているのだろう。しかし、人が混んでいない、風通しのよい野外で一人でマスクしていたりする人はどう説明されるのか。

もはや、それはマスクが常態化し、マスクが当たり前の思考に自己洗脳された姿である、と考えるしかなさそうだ。

 こう言うと、マスクにはいろいろ利点もあると言う人もいる。化粧がいらない、とか、半ば匿名の自分でいられるのが楽だ、とかマスクをするからこそ気付くメリット?もあるだろう。でも、ここはそれを論じる場ではない。

 確かなのは、マスクについては、いろいろな意見があるということだ。ならば、マスクをする人と、しない人と、世の中は2つに分かれるはずだが、そうならないのはなぜなのか。

 少なくとも、私のようなかなりの頑固者、へそ曲がり?でないと、マスクを外せないという世の中が変なのではないか、と言いたい。

 今、ニュースでは、新興宗教の洗脳の恐ろしさがよく取り上げられているが、人のことばかり言えるのか。マスクこそ、深く考えず、とにかく周りに合わせて付けておけば無難、と考え習慣化してしまったようだが、ここに日本人のそもそもの恐ろしさが表れている。

 それは後になって大きなツケとなって我々を苦しめるかもしれないのである。

 歴史の前例を思い起こす時、人間は今に至るまで、何ら賢くもならず、進歩してもいないことは明らかのようである。

 先日の演奏会では、マスクはまさに自分で考えることをやめた人の、無数の降参の白旗に見えなくもなかった。

 より良く生きるのでなく、ただ安楽に大勢に和して生きることしかしなくなった人間よ。これがかつて、何よりも命が大事であると連呼して、新型コロナの大騒ぎをした人々の成れの果ての姿なのか。

 恥も外聞もなく、とはよく言ったものだ。恥を気にするはずの人たちが、今や最も恥ずかしい姿をさらして、恥じることがない。

 思い出した。最大の絶望とは、自ら絶望であるのを知らないということだ、と言ったのは哲学者キルケゴールだった。