マスクが当たり前の世の中なんて | 野口剛夫の音と言葉

野口剛夫の音と言葉

音楽家・野口剛夫が日々の活動の中で感じたこと、考えたこと

 デパートにある老舗レストランに久しぶりに入った。亡き恩師とも食事を共にした思い出の店である。
 私たち夫婦が案内された二人掛けの小さなテーブルには、ちょうどそれを真二つに区切るように巨大なアクリル板が乗っていた。感染対策の飛沫防止のためのものなのだろうが、それを見た途端、レストランでの楽しい食事の期待は吹っ飛んでしまった。「困るよ。これじゃまるで刑務所の面会室みたいだ」と私はウエイトレスに言い、結局そのアクリル板はテーブルの縁にずらして置かせてもらうことにしたが、それをレストランは黙認したようである。周囲のテーブルを見渡しても、個別に差はあるにしても、アクリル板をずらしたり、斜めにしたりで、マスクなしでおしゃべりに興じている人が大半だ。
 オミクロン株という新種の新型コロナが世界中に蔓延しつつあるらしく、わが国でも、感染者数(本当は検査における陽性者も含めているらしいのだが)の増加が連日ニュースを騒がしている。しかし、ほとんど報道されない点でもあるのだが、この新しい株が人をたくさん重症化させ殺すということは滅多にないのだ。つまり、感染力が強くても、ウイルスそのものが弱毒化していてそんなに危険ではなく、ほぼ例年のインフルエンザ以下の存在、ただの風邪のようなものに成り下がっているようなのだ。
 テレビや新聞による官製ニュースの効果は絶大であり、これまで人々は感染者拡大の報に縮み上がり、政治家は国民の行動規制に躍起になり、文化・スポーツの活動の自粛や規模の縮小に目の色を変えて取り組んできた。そして、今回も表向きの流れは同じようになりつつある。
しかし、最初に述べたレストランの光景からもわかるように、新型ウイルスの現状を受け止める人々の意識には変化が見られるようだ。新型コロナ騒動が始まってほぼ2年が経ち、さすがに、日々の感染対策、例えばマスクをしたり、人との距離をとったり、感染者を見つけては騒ぐということに、嫌気がさし始めたのかもしれない。実際のところはどうなのだろう、と今まで専門家と称する人々や政治家の言うことを鵜吞みにしていた人々は、少し冷静に考えようとし始めたのかもしれない。そうなったら、しめたものだ。それこそ、国やその意向を受けた医師たち、製薬会社らにとっては、最もしてほしくないことであるからだ。
 私は今、ほぼマスクなしで生活している。電車にも、全員がマスク星人の中、マスクを付けないで乗り込んでいく。電車の換気システムは非常に優れているので、本来マスクは要らないのだ。しゃべらなければ、ほぼ口は閉じていられるし、感染対策面での違いはマスクを付けている人とほとんど変わらないからだ。それに、何度も書いていることだが、私にはそもそものウイルス観がある。もっと怖くて死者数の多い病気はいくらでもあるのに、なぜこのウイルスだけに必死になるのかが理解できない。
 人はなぜ、そんなに好んで、ウイルス恐怖のヒステリーに陥りたいのだろうか。見えないウイルスに際限もなく怯え、ワクチン接種も一度始めてしまったら、どんどん追加をしていくつもりなのだろうか。
 もう目を覚まそう。今、私たちがなすべきは、マスクをすることでも、ワクチンを打つことでもない。
 むしろ、マスクが無意味だと思ったら、率先してマスクを付けないことだ。ワクチンに意味がないと思ったら、打つのをやめることだ。周囲の人が同調圧力のため、延々と続けていることに対し、勇気を起こし行動で意思表示をしようではないか。
 音楽界でも例外ではない。舞台上の演奏家は、マスクで顔を半分隠すことが、客への非常な無礼であることをもっと意識するべきだ。そして、聴衆はほぼ黙って静かに聴くクラシック音楽の演奏会で感染することは滅多にないのだから、マスクを外すべきだ。
 マスクしない人、ワクチン打たない人を、異常者扱いする外国での報道に何とも言えぬ情けなさを感じている。数年前までは人々の意識は真逆だったのだから。物事は多数の人がそう思うから正しいのではない。正しいから正しいのだ。正しいことを正しいと言って、異常者扱いされるとしたら、それは世の中の方が異常なのである。