特にパチンコに興味はありませんが・・・そろそろ正気に戻る時では? | 野口剛夫の音と言葉

野口剛夫の音と言葉

音楽家・野口剛夫が日々の活動の中で感じたこと、考えたこと

 このところ、何人もの評論家が「コロナ後の世界は・・・」などと様々に論じている。いかにも評論家らしい。確かに経済は落ち込み、新しい形の生活様式も生まれるかもしれない。しかし、私はそんな議論にはたいして関心がない。世界を本当に心配しているのだったら、今の状況に対して我々はどう考え処していくべきか、について建設的な発言をしてほしい。ただひたすら怖がりパニックに陥る人々を、逆に落ち着かせ、平常心を取り戻させるようなメッセージを発信してもらいたい。

 ゴールデン・ウィークが終われば、全国に出された緊急事態宣言の期限がやって来るが、それがどうやら延長されるらしいという報道が出た。しかし、延長されようがされまいが、もうそんなことはどうでもよいと思う。それは結局、我々が自粛できるかどうかということにすぎないからだ。ただ、ここであらためて確認したいことがある。それは、そもそも自粛というのは、我々が自らの主体的な判断で行うものであるということだ。文字通り、自粛は上から強制されるものではありえない。

 自粛をしないパチンコ店を見つけたら、店頭に脅迫文を張り付ける、いわゆる「自粛警察」のような動き――周辺住民のおせっかいボランティアの仕業であろうか――があったり、自粛を拒む店の名前を知事が記者会見で公表するなんてこともあったが、狂気の沙汰としか思えない。そして、それをみても怒らずにおとなしく黙っている国民、メディア・・・。ただ、それも当然かもしれない。とにかく訳もわからずに、多くの人はただひたすら自粛を続けることを受け入れているわけだから。理不尽なことに慣らされていると、心から怒るエネルギーも萎えてしまう、というわけだ。こうして、皆が一緒に自己催眠をかけ、魂が朦朧とし停止する。たとえ肉体は死なないでも、魂はもう死んでいるのかもしれない。

 何度もこのブログで書いているが、そこが一番怖いのだ。ウイルスで死ぬことよりも怖いのは、我々が本来の自己を見失い、仕事への誇りを投げ捨ててしまい、ただぶつぶつと独り言を言い、他人の足を引っ張ったりするようになることだ。

 今は莫大な情報が手に入るようになっている。あまりに多様なので、何が正しいのかはかえってわかりづらい。専門家に聞いても、たとえば活動の自粛一つをとっても正反対の意見があるということからみても、我々が自分で判断するのは難しいのは確かだ。

 しかし、それでも自分の意見を持つことはできるし、持つべきである。私はかなりたくさんの報道と情報に接した結果、今回のウイルス騒ぎにおいては、感染の防止に鋭意努めながらも、自分が本当に大事に思う活動、つまり「不要不急でない」活動は行っていくべきだ、という考えに達した。そして、普段の活動を極力そのままの形で実行している。

 私の音楽家としての仕事は大きく分けると、研究執筆、作曲、指揮、教育である。最初の二つは自宅で通常通りできるが、後の二つについては、会場としている区立施設が閉鎖されたので、民間の音楽スタジオを借りて継続している。もちろん、演奏や教育は、聴衆や受講生などの相手があって成り立つことであり、それはこの度の騒ぎで激減してしまったのは事実である。しかし、やはり私のような考えを抱く人が一定数いることも事実のようで、演奏会にしても音楽ゼミナールにしても、思いもかけない人たちと知り合ったりし、逆に続ける励みになっている。

 

 さて先述したパチンコ店のケースだが、結局、圧力に耐えきれず、ほぼ全ての店が休店してしまったようだ。日頃パチンコには興味もない私だが、今回の件は本当に残念である。そして、とにかく続けたいと思って粘った店の方々のご努力は当然のことだと思っている。感染対策をして営業を続けたいと頑張った人の気持ちが踏みにじられてしまったのは、他人ごとではない。

 我々アートの世界に目を転じてみると、私はちょっと店じまいが早すぎたのではないかと感じている。演劇も音楽も、あっという間に自粛の波に乗って、公演中止・延期を決めてしまったように見える。あくまで自粛要請であり、法律で禁止したのでもないのにである。それに中止による経済的な損失補填がまだ保証されてもいないのにである。本当に熟慮し、「苦渋の決断」(こういう文言をよく見るが)をしたのだろうか、と私は言いたい。

 知りえた限りでは、演劇では野田秀樹氏や平田オリザ氏がネット上で、また音楽ではほとんどいないが唯一、指揮の井上道義氏が専門家との対談の形で今回のウイルス騒ぎについて批判的な意見を表明している。

 批判してくれたのは私にとっては歓迎なのであるが、同時に不満もある。この度失われたのは、公演によってもたらされたはずの収入だけであろうか。演劇人として、音楽家として、今はただおとなしく家にじっとしているだけでよいのか。実は自粛することで失うのは、何よりも彼らのアーティストとしての存在理由、プライドなのではないか。

 野田氏、平田氏、そして井上氏にしても、彼ら自身がなぜ今、いかなる形であれ活動を続けようとしないのだろう。確かに演劇だったら、劇団員がいなくなってしまうかもしれない。指揮者にとってはオーケストラ楽員がいなくなったら、演奏できなくなるのは確かだ。でも、彼らがアーティストであるならば、俳優なら一人芝居でもよいし、何かの作品の朗読でもよい。指揮者はピアノを弾けるなら弾いたらよいし、誰かを誘って室内楽でもよい。できる限りで生の公演をしたらよいのではないか。

 野田秀樹氏や井上道義氏のような有名人が公演を自主的に始めた、となればメディアも注目し、世間へのインパクトも大きいかもしれない。ただ、ひねくれていると言われるかもしれないが、私はこういう考え方もあまり好きではない。「有名人だから」という考え方は、今回のウイルス騒ぎにおける「専門家だから」という考え方と重なる。専門家だから正しいことを言っているとは限らないのだ。今回の件では専門家もわかっていないことがたくさんある。有名だから、専門だから、お上だから、という前置きによって、彼らの言うことを鵜呑みにするくらいなら、たとえ失敗したとしても自分でしっかり考えた上で実行したほうがどれだけ良いかもしれない。

 私が今していることは、自分なりに考えて出した結論だ。他人の意見は大いに参考にする。でも、最後は自分で考えて決定する。もし各自がそうするならば、そのうちに一つの流れも生まれるかもしれない。一辺倒の自粛の強要あるいは盲従という、国民ほぼ全てを「感染」させたヒステリー現象に対し、一つの問題提起となることを望みたい。