1回目の感想はこちらです。

 

 2回目の鑑賞をしてきたので、前回気付かなかった点を中心に感想を書きました。
 また、パンフレットの内容にも少し触れております。
 なお、普通に良いと思った部分も色々とあるのですが、それを入れると文章が長くなりすぎてしまい、主旨も分かりにくくなるかと思うので、基本的には省くことにしました。

 

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・東田さんの著作からの引用(ナレーション)について

 作中で二度ほど出てくる説明として、「(話せない自閉症者の)口から出る言葉は本心と違う」というものがあった。これは非常に危険な表現だと思う。
 この映画の作中だけでも、ジョスさんやエマさんはよく言葉を発している。NHKのドキュメンタリーで見た限り、東田さんご自身もそうだった。そして彼らの言葉は別に無意味でなく、状況に即していたり、ちゃんと本人なりの意味があるようにしか見えない。それらの言葉も全部本心じゃないというのだろうか?
 「口から出る言葉は本物ではない、文字盤でつづられた方だけが本当です」という主張はFC界隈でよく見られるものだ。これは障害者の本来の言葉を封殺してしまう非常に危険な見方だと私は思う。

【ここでちょっと私個人の体験談】

 あえてぼかした書き方をするが、私はいわゆる重度の(?)自閉症の人と話した経験が少しはある。例えばある人とは、その人が好きな趣味の話などを何度かした。私の振ったよく分からん会話によく付き合ってくれて、私は今もその人のコミュ力に敬意をいだいている。
 また、いわゆる“他害がある”人にも会ったことがある。でも私の意見では彼は普通に親切な、私の意図を察してくれる人だった。短い時間ではあるが、私は彼とそれなりに仲良く過ごしたと思う。

 重い自閉症の人に心が無いだの何も分かってないだの、私は思ったことがない。というか、そういう発想がなかった。なぜかはよく分からないけど、たぶん『逆の先入観』として、「同じ人間なんだから心がないわけないじゃん」ぐらいに思っていたのだろう。
 それに彼らのすることは、私自身もよくやるなってことの延長が多いと感じたので、あれはこういう意味かな?これはどういう意味だろう?と考えると少しずつ理由の推測できることもよくあった。

 だから「会話のできない自閉症」を連呼するこの映画のパンフレットにはいささか不満を覚える。彼らが「話さない」んじゃなくて、気をつけて「見て」いないと見逃すのだ。最初から「意味がない」と思っていては、彼らの「言葉」も「言葉以外の言葉」も見えなくなってしまう。
 FCの大きな問題点はそこだ。
 FCばかりが優先されて、本来の「言葉」を障害者から奪ってしまう。

 

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・イギリス編(ジョスさん)

 そして、上の体験談に繋がる話がジョスさんのシークエンスにある。
 ジョスさんが車の中でお父さんを待ち、帰りがいつもより遅いので『ノーピッツァ』と思って不安になって暴れてしまう。
 これは明確に「言葉」だ。
 状況に即した、よく理解できる行動だ。
 のちにピザを買って戻ってきたお父さんは店で長く待たされたと話している。待っている相手が遅れれば焦ったりおかしいと思ったりするのは自然なことだ。
 もしかしたらジョスさんは、ピザは店の都合で遅れることもあるものだ、とあらかじめ知っていれば、そんなに不安にならずに済むかもしれない。電車の遅延だって乗る前に覚悟していればあきらめがつくのと同じ感じで。(無論、そんな簡単な話ではないかもしれないけど)

 パンフレットやネットの記事を見て知ったのだが、ジョスさんのご両親はこの映画のプロデューサーを務めていた。(というか、彼らが映画化のきっかけを作ったようだ) 前回の感想でジョスさん編は「赤裸々さ」が強いと述べたが、これはご両親の意思が反映されているからなのかもしれない。
 前も書いたけれど、綺麗ごとだけじゃなくこんなふうに苦労してるんだという、その姿をあえて見せることは、世界中の同じ立場にあるご家族たちに「私たちだけじゃないんだ」という勇気や安心を与えるのではないかと私は思った。

 さて、この場面について、パンフレットの原作者(東田さん)へのインタビューの中で言及がある。(インタビュー2ページ目左) “ジョス君が車の中でピザをねだっていて、(中略)パニックになっていく過程も”撮影されているが、そういった際にはどう見守ればいいのか?という質問への答えである。それは次のようなものだ。

 “人が困っているように思われる場面を映像にするのは悲観につながってしまう危険もあります。が、あえてこの場面を使ったのには訳があったと思います。”

 この言葉を見て私は思った。
 隠したいのか?と。
 まるでパニックが恥ずかしいことであるかのようだ。
 私はジョスさんの行動は当たり前の心理で、恥でもなんともないと思う。ただパニックにならない方法があるといいよね、と考えるだけ。

 インド編で対照的に、アムリットさんのお母さんが、「東田さんの著書を読んで、正しい母親であろうとするあまり我が子の個性を受け入れていなかったことに気付いた」と語る場面を、私は複雑な気持ちで観ることになった。

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・アメリカ編(エマさんとベンさん)

 まず、既に訂正文は書いているが、前回の感想の誤りについて。
 エマさんの『ノーモア』は、少なくとも2回は字幕がついていました。1回であるように間違ったことを書いて申し訳ありませんでした。

 さて、その『ノーモア』なのだが、実はシークエンスの冒頭の方にも「もうおしまい(ノーモア)」と言っているシーンがあった。(前回は見逃していた)たぶんこれはシークエンス中盤以降にあるFCシーンの後に撮られた映像なのではないかと思う。(同じおもちゃを持っていたし)
 ちょっと確信がないがこれが事実だとすると、やはりエマさんの『ノーモア』は「本当にもう勘弁…」という意味で、ついてくるカメラを見て「まだFCやるの?」と警戒していたのかなぁと思った。

 ところで2回目の鑑賞をして気付いたのだけど、私はなぜかエマさんの笑顔がすごく好きらしい。彼女が楽しそうに笑っているのを見ると幸せな気分になる。
 ベンさんが文字盤で彼女のことを「超クール(Bad-ass)だよ」と言うシーンがあるが、彼女が「Bad-ass」風味に見えるのはたぶんFCのストレスと演出のせいだと思う。いやまぁ笑顔が素敵なのもクールではあると思うけど。

 そんなエマさんやベンさんにFCを紹介したのは、エリザベス・フォスラー(Elizabeth Vosseller)という人物だった。調べてみると、彼女は「Growing Kids Therapy Center」という法人(かな?)の創始者であり、自分たちのやり方を「Spelling to Communicate (S2C)」と呼称している。(FC、RPM、S2Cと、いろいろ手法の名前があるのです…)

 彼女の運営する法人のFBの動画にはエマさんやベンさんの姿も確認できた。
https://www.facebook.com/watch/?v=2782737868492365

0:26~ なんだか辛そうなエマさん。
2:00~ 相変わらずリズミカルなベンさん。
2:37~ 映画内と違う、紙じゃないキーボードでFCをするエマさん…とそれを向かいの席で見てる?ベンさん。
2:56~ リンゴを食べる楽しそうなエマさん。(映画でも食べてたね)

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 次は前回あまり疑問点がないように書いたベンさんのFCについて。今回ちょっとタネが見えた気がした。
 ベンさんのFCが速い理由は、ベンさんが誤タイプ上等でわりと適当に、リズム優先で文字を指しており、しかもミスったときにはファシリテーターがなぜか文字を読み上げなかったり、先を促したり、何なら本来打つべき文字を横から言ってしまっているのが理由のようだ。(アルゼンチンの勉強をしているシーンで、答えが「Wife」のところ「最後はE」と介助者が言ってしまっている)
 彼がFCをするときエマさんよりリラックスして見えるのは、彼が上手に力を抜いているからなのかもしれない。

 また、ベンさんが「アス…アス…トゥ…トゥ…アス…」などとつぶやくのは、FCの最中かその直後と思われるシーンに多く、逆にそういったつぶやきを全くしていないシーンも多い。やはり介助者の真似をするというか合わせてあげていて、アルファベット的な音を口にしている感じなのかもしれない。
 なんで「アス(エス?)」が多めなのかはわからないが、英語では「S」を多めに使うから?だろうか。また「トゥ」は「to」が頻出語句だから適度に挟んでみているのかもしれない。
 ベンさんは、アイスホッケーのリンクに入っていくとき、「バイン、バイン、バイン」とつぶやいていたが、あれも会場にダンスナンバー?的な音楽*が流れているのを聴きながら音楽を口真似していたのかもしれない。(* ドゥン!ドゥン!ドゥン!って感じのああいう曲)

 ベンさんとエマさんのシークエンスは常にFCが挟み込まれ、それを疑いの目で見るという形になってしまうため、正直何を信じていいのか分からなくなってきてしまった。
 二人が仲がいいというのも本当に本当なのか…?と自信がなくなってきてしまう。
 でも…嫌がらず一緒にいるんだから…仲はいい…んじゃないかな…。(本当に?)

 

 他の方の感想で、最後は二人の同棲生活を暗示しているのではというものを見かけたのだが、やっぱりそういう解釈でいいのだろうか?(新居がどうこうという話はしている)

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 さて、映画全般にわたるその他の感想。
 これは二回目の鑑賞ならではの体験だと思うのだが、『ドキュメンタリーのペテン』(今勝手に命名した)がよく見えた。
 『ペテン』と言ったら人聞きが悪いかもしれないが、要するに、生の、未調理の映像を加工してナレーションや音を重ねたり、カットをパッチワークすることによって、映像をナマの状態とは違う意味に見せる『テクニック』が使われている。
 「動物の面白映像にアテレコする」とか「珍プレー好プレーのみのもんた」とでも言えば伝われるだろうか。

 例えば、ジョスさんが車外の音を気にしてハッと顔を上げたシーン。ここに、東田さんの「記憶がフラッシュバックして…」というような文章を重ねることにより、あたかもジョスさんが記憶のフラッシュバックにより身動きしたように見せている。

 また、シエラレオネで、母親が娘のジェスティナちゃんの手を引いて群衆の間を歩く場面。人々がどこか冷たい目で彼女たちを見ている…かのように見える。ここにはお母さんの「以前、この子があの中で暴れて大変なことに…」というような語りが重ねられる。そうかそれで人々はそんな冷たい目で…と思ったところで、ふと自分の錯覚に気付く。
 これって単に撮影のカメラを見て「いったい何の収録だ?」という視線が集中しているだけの可能性もあるじゃないか? 私もたまに町でカメラ見かけるけど、「何だアレ」って目で見てるもの。
 語りと映像はもちろん別撮りだ。お母さんの言葉にも行動にも何一つウソはないだろう。
 それをわざと重ねたのは、映画の製作者なのである。

 アメリカ編にもある。エマさんとベンさんが、二人きりでレストラン(かな?)の席に向かい合っているシーン。それぞれ互いに干渉はせず、自由な雰囲気でテーブルについている。ベンさんが鏡状の細い柱にふと顔を映し、にこりと微笑む。なんだか「いい雰囲気」に見えるように撮影されている、というのは果たしてうがった考え方だろうか。

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 最後に、本編の後に上映されたビデオ舞台挨拶について。
 これは限られた日の限られた回にしか見ることができなかったので、これが2回目の鑑賞に赴いた理由でもあった。

 映画ジャーナリストの金原由佳さんが東田直樹さんにリモートインタビューする形…ではあったのだが、インタビュアーは明らかに、あらかじめ用意した文章を読み上げて質問をしている様子だった。
 正直なところこれは私には残念であった。
 これでは「あらかじめ質問をもらって回答を暗記しているのでは?」という疑問を払拭できなくなってしまう。

 ただ、インタビューでカンペや台本があって駄目かと言えばそんなことはないと思うし、よしんば台本を作ったのがゴーストライターだとかいう事態が仮にあったとしても、まぁそういうこともあるかもね?とは思う。

 ちなみに、すぐ隣に親御さんが映っているとかそういうことはなかった。強いて言うなら、東田さんが彼から見て右側(画面左側)によく目を向けていたので、そっちに誰かいるのかなとは思った。左側にもときどき目を向けていたが、右側の方がかなり多かったと思う。(まぁITスタッフとして誰か他人はいるのではないだろうか)


 最初は東田さんの手元は見えないアングルになっているのだが、途中から今度はずっと手元を見せるアングルに切り替わったりもしていた。

 リモート対談であるため東田さん側の画質が悪いようで、なんと肝心の(?)文字盤の文字が全部白飛びしている状態。一瞬、白紙でタイピングしてるいるのかと思ったけど、たまにうっすら線が見えたので白飛びで合っている…んじゃないかな、たぶん。

 なお、東田さんの回答内容について字幕は全部出るのだが、なぜか一回の回答が完成した後にまとめて出る方式であるため、文字を(基本的に)一文字ずつ読み上げる東田さんの発音が明瞭でないところは「今どういう文だっけ?」と途中で分からなくなることもあった。
 東田さんの発音は、ところどころ「R」が「J」に化けているような感じになっていたのだが(さながら江戸っ子の「シ」が「ヒ」に化けるがごとく)、どういう理由があるのだろうか?(緊張しているときの癖とか?) 全部がそうなっているわけではなかったのだが、例えば恒例の「おわり!」が「あじ!」のような感じに聞こえる部分があった。

 また、以前からやられていたのかよく覚えていないのだが、右手で文字盤を払う?拭く?ような仕草が見られた。私が見た印象としては、途中までタイプしたんだけど分からなくなってしまったら、頭の中から文字列いったん消して最初からやり直しているような感じに思えた。(そろばんの「御破算」してから「願いましては」みたいなイメージ)

 さっき、東田さんは基本的に、文字を一つずつ読み上げると書いたが、実は全部の文章がそうではなく、特定の単語のみがスピーディだったり、特定のフレーズのみがスピーディだったりという場面も見られた。
 例えば「よろしくお願いします」は一文字しかタイプ(?)してないし、他にも確か「自閉症」「コミュニケーション」「世界は一つ」あたりは、文字盤を一ヶ所くらいしか触っていないような感じだったと思う(ちょっと記憶があいまい)。これらと他の単語・他のフレーズとは何が違うのだろうか?

 次は質問内容について書いてみよう…と言いたいところなのだが、正直ほとんど頭に残っていない。会話に流れがあるわけではない一問一答式なので覚えづらかったのと、私が東田さんの動作ばかり見ていたのと、あとは先述の、タイプ中に何の話だったか分からなくなる現象のせいで…というのは言い訳ですが…。

 一つ気になったのは、インタビュアーの金原さんが「映画には10代の自閉症者たちが登場しますが~」というふうなことを言っていた点。これは誤りではないだろうか。
 パンフレットでもやたらに「少年少女」と表現されているのが気になっていたのだが、そのパンフレット内にハッキリと、ベンさんは23歳だと書いてある。大人である。エマさんはベンさんの幼稚園からの幼馴染とあるから同い年くらいだろう。たぶん大人である。ジョスさんはおそらく十代後半? ジェスティナさんは十歳前後くらいだろうか? まとめて表現するのであれば「青少年」とでも言うのが適切ではないかと思う。

 一つだけちゃんと覚えているのは、金原さんが「自閉症者のパニック時の対応」について質問していたこと。パンフレットの原作者インタビューでも同じ質問していたので記憶に残っていた。東田さんの回答はどちらも「温かく見守って」「人それぞれ」という感じ。
 思うに金原さんは、もっと具体的なアドバイスを聞きたかったんじゃないだろうか。もし、私が遭遇した側だとしたら…周りにご家族などがいる場合には「何かお手伝いしましょうか?」と質問してみる、かな?(理想を言えば、パニック時の対応をするというよりも、パニックを起こさない状況作りが大切なのだろうと思う)

 インタビューを見終わってから気になったこと。それはなぜこの形式だったのかということ。
 文字入力にパソコンは使わないのか?
 文章を書いておいて読み上げる形式ではいけないのか?
 というのも、前にドキュメンタリーで見た記憶だと、東田さんはノートパソコンを使えるはずだし、書いてある原稿を読み上げるのはスラスラやられていたから、当意即妙な受け答えを必要とする会話方式にしないのであれば、別の方法でやった方が観客が理解しやすかったんじゃないかなぁ、と思ったのだ。
 凄くうがった考えをすれば、独立してタイプできると印象づけるためだったのか?

 なお、インタビュー映像にはたびたびカットが入っていた。これはおそらく、東田さんが離席等をしているからだと思う。パンフレットの監督インタビューでも、彼が「会話中」に離席することは言及されていて、それでも別にそのことを否定的に捉えてなどいない様子だった。
 だから、別にそこはカットしないで見せても良かったのではないか?と疑問に思った。以前のNHKのインタビューでもそういう姿はそのまま見せていた記憶があるし、そもそも自閉症者のそういう様子も偏見の目で見ずに受け入れてほしい、という映画ではなかったのか…?

 インタビュアーへの最後の回答を終えたときの「おわり!」で、東田さんはいかにもホッとした様子を見せて笑顔を浮かべていた…ように見えた。
 そしてインタビュアーも、よく頑張ったね、というような顔をしていたように見えた。

 彼がいい顔をするのはいつも「終わった」ときだ。

 その笑顔の映像は『ドキュメンタリーのペテン』として、NHKにも使われていたことを私は覚えている。

(終わり)