蛇足かもしれませんが、最初に述べておきたいことがあります。

ホーベン氏の「会話」に対して疑問の声が上がったのは、
世間が彼やその家族に対して冷酷だったからではありません。
報道された手法に明らかな問題点があり、それが指摘されたのでした。

問題点に目をつぶり、素晴らしい話だと褒めたところで、
それはホーベン氏たちにとって幸せなことではないはずです。
誤った方法を捨て、別の正しい手法を探す機会も失われてしまいます。

彼と彼の家族の本当の幸せを願う人がいたからこそ、
「きちんと確かめよう」という声が上がったのだと、
そんなふうに捉えてほしいと思い、このブログ記事を投稿します。

また、以下の文章はそこに登場する人々を馬鹿にしたり、
あざ笑ったりするためのものではありません。


――


※注
 このブログ記事は、主に英文のWebサイトから得た情報に基づいて書かれていますが、
 筆者である私の英語力はかなり怪しいものです。(いわゆる中高生レベルです)
 知らずに誤訳や誤解をしている可能性も大いにあります。
 間違いがあった場合はコメントで教えていただけると非常に幸いです。


――


Rom Houbenというベルギーの男性がいる。
名前の読みはロム・ホーベン(ロム・ホウベン)、もしくはロム・ハウベンと
日本語のWebサイトでは紹介されているようだ。
とりあえずここではホーベン氏に表記を統一しよう。

彼の名が広く知られるきっかけとなったのは、
ドイツの『デア・シュピーゲル(Der Spiegel)』という雑誌の記事だ。
英語版Wikipediaを見ると発行部数は週105万部。
扇情的なスポーツ新聞といった種類のものではなく、
むしろかなり真面目な内容の雑誌らしい。
「デア・シュピーゲル」は「鏡」という意味だ。

問題の記事はWeb上で英訳版を読むことができる。
日付は2009年11月25日。
内容を踏まえて表題を訳すなら、
『二度目の産声 ― 植物状態と言われた患者、実は意識あり』
といったところだろうか。

'My Second Birth': Discovering Life in Vegetative Patients
http://www.spiegel.de/international/spiegel/my-second-birth-discovering-life-in-vegetative-patients-a-663022.html

さて、記事の冒頭に書かれた「編集者注」を見逃してはいけない。

>この記事の中で話題となった科学的知見の一部は
>その後、訂正されています。最新の記事はこちらをご覧ください


どのように訂正されたのか、大雑把に言うと、
「患者の言葉」は実はニセモノだった、という話である。

上に挙げた記事をもう少しだけ詳しく読んでみよう。
2009年当時、ホーベン氏は46歳。
23年前に交通事故に遭って以来、植物状態(vegetative state)とされてきた。
しかしその23年間、彼にはずっと意識があったのだ、というのが
シュピーゲル誌で最初に語られたストーリーである。

(140113追記: よく読んでみたら、どの時点からどの時点までが23年間なのかは
 明言されていないので、事故が23年前というのは私の思い込みかもしれない)


シュピーゲル誌のインタビューに対し、
ホーベン氏はわずかに動く右手の人差し指でキーボードを押し、
モニターに文字を表示させることで応答した、とされた。
彼の手を支える「スピーチ・セラピスト」の助けを借りて。

彼が会話できることを確認し、これを発表したのは、
神経科医のスティーブン・ロウレイズ(Steven Laureys)だった。
彼とそのチームはMRIという機械を使って……というこのあたりは、
ちょっと私の理解が怪しいので適当に書いてしまおう。
詳しくは元の記事などをご覧ください。
ともかく彼らは、植物状態と診断された患者の中に
実は意識のある人々もいるらしいことを発見した、という主張である。
この主張の信頼性についても、私の理解の乏しさから言明を避けておく。

記事は種々の医療問題(特に脳に重い損傷を負った人のケース)を語り、
そのあと再びホーベン氏のインタビューへ戻ってくる。
ホーベン氏は意識がありながらも気付いてもらえなかった日々を語る。
「いくら叫んでも声にはなりませんでした」であるとか、
人々が自分をいないものと考えて会話していたので、
「人間関係についてちょっとしたエキスパートになりました」であるとか。

これらの言葉を本物と見なすにあたり、一つ避けては通れぬ問題があった。
文章を考えているのが実は「スピーチ・セラピスト」なのではないかという可能性だ。
ホーベン氏の手は「セラピスト」によって動かされているようにも見える。
この疑いを払拭するために、ロウレイズ博士はテストを行った。
「セラピスト」と離れた状態でホーベン氏は二つのものを見せられる。
それから「セラピスト」が戻ってきて、ホーベン氏は自分が何を見たかを答える。

「彼はテストをパスしました」とロウレイズ博士は言った。

なるほど、このテスト結果に疑いの余地がないのならば、
ホーベン氏の言葉は本物であると判断して良いだろう。

※注:
 「他者が手を添えていること」「動きを助けていること」それ自体は
 言葉の真実性を左右するものではないと、念のため強調しておきたい。
 他者が手を添えたままでも本物か否か証明することはできるはずだ。

さて、シュピーゲル誌が報じたこのニュースは、
その他マスメディアも後追いし、様々な国に伝えられたようである。
CNNのサイトに動画付きの記事があったので例として挙げてみよう。

「昏睡」に囚われた男性 ― なぜ誤診は起こったのか?
Trapped 'coma' man: How was he misdiagnosed?
http://edition.cnn.com/2009/HEALTH/11/24/coma.man.belgium/index.html

こういった映像が広く知られた結果、様々な意見が渦を巻いた。
ロウレイズ博士の行ったテストについて、
きちんとコントロールされていないのではないか、という指摘もあった。
つまり方法がずさんであり、テスト結果が信頼できないという意見だ。

そして2010年2月13日のシュピーゲル誌の記事である。
同誌の一本目の記事から誘導されていたページだ。

Neurological Rescue Mission: Communicating with Those Trapped within Their Brains
http://www.spiegel.de/international/world/neurological-rescue-mission-communicating-with-those-trapped-within-their-brains-a-677537.html

ロウレイズ博士は自説を訂正した。
より厳密なテストを行った結果、ホーベン氏の入力したとされる文章は、
実際は「スピーチ・セラピスト」によって作られたものだと判断したそうである。
「セラピスト」はおそらく無意識のままにホーベン氏の手を動かしていた、そして、
こういった self-deception (自己欺瞞。この場合は錯覚とでも訳すべき?)は
今回の手法――「facilitated communication」 には付きものなのだという。

「facilitated communication」は日本国内のWebサイトでは、
「ファシリテーテッド・コミュニケーション」とか
「ファシリテイテッド・コミュニケーション」と表記されることが多いようだ。
「FC」とか「FC法」と略されることもある。
直訳すれば「手助けされた意思伝達」ということになるだろう。

シュピーゲル誌の二本目の記事を読む限り、ロウレイズ博士は
ファシリテーテッド・コミュニケーション(FC)に未練があるようだ。
しかし、この手法が90年代から研究の対象となっており、
何度も何度も否定的な分析結果を突きつけられている件は、
特に留意しておく必要があるだろう。

こういった釘の刺し方は、いささか不平等で攻撃的に見えるかもしれない。
全てのFCが嘘だとは証明されてないんじゃない?とか、
少しは希望をいだいても良いんじゃない?と思う人もいるだろう。
しかしこのホーベン氏の事例では、家族や医師の
そういった希望的観測により、先走った確信が生じてしまった。
その結果としてどんなことが起こっただろう。

このFCがまがい物であるなら、
ホーベン氏は自身の発言を好き勝手に作られてしまった。
ホーベン氏の家族は、まったくの別人が作った文章を読み、
それが大事な家族の言葉であると思い込まされてしまった。
嘘をつく気はなかったのかもしれない「セラピスト」は、
不名誉な発表と共に名前も顔も公にされてしまった。

もちろん家族らの行動は善意から生まれたものだった。
長い不安や悲しみの中にあって、救われたい・救いたいという心理も働いただろう。
批判するなんてひどい、と思う人の気持ちも想像はできる。
それでも、やはり、このような悲劇が現実に起こる以上、
慎重になってなりすぎることはないと私は思う。
だからここでは上辺だけFCをかばうような、誤解を招く表現は避けた。

また、これはあくまで一例ではあるが、英国の自閉症スペクトラムのための団体、
『The National Autistic Society』が下記Webサイトにおいて
「FCは深刻な損害をもたらしうる」とし、注意を促していることも記憶に留めておいてほしい。

Facilitated communication
http://www.autism.org.uk/living-with-autism/strategies-and-approaches/alternative-and-augmentative-communication/facilitated-communication.aspx


さて、警句はここまでにしてホーベン氏報道のその後に戻ろう。
ロウレイズ博士はシュピーゲル誌による報道以前にテストをしてはいたものの、
その正確さに問題があったことを認め、テストをやり直した。
以前のテストにどのような穴があったのかは気になるところだ。

やり直した方のテスト内容について書かれている記事があったので、
当該部分を少し長めに訳してみよう。
なお「ファシリテーター」とはFCにおける介助者のことである。

Story Of Book-Writing Coma Patient Debunked
http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=123813455

記事の日付は2010年2月17日

>数日前、ロウレイズと彼の調査チームはイギリス(UK)の学会で
>これらのテスト結果について述べた。
>ロウレイズは言う。彼らは患者に、ある物体を見せるか、ある単語を聞かせた。
>ロウレイズとの以前のやり取りとは違い、
>ファシリテーターは実験のこの部分の間、部屋の中にはいなかった。
>その後、ファシリテーターが手助けをするために戻され、患者は質問に答える。


ええっ!? じゃあ以前のテストのときには
患者に物を見せている間も「セラピスト」は同じ部屋にいたってこと!?
驚いてシュピーゲル誌の一本目の記事を確認してみると、
実験については原文ではこのような描写だった。

>To perform the test, Houben was shown a couple of objects while his assistant was away.
>When she returned, he was asked what he had seen.

(下線は引用者による)

確かに「was away」としか書かれていない。
同じ部屋にいたなら、こっそり覗き見をしたり、音が聞こえたり、
室内の何かに像が映ってしまった可能性などを否定できず、
正確なテスト結果として認めてもらうのは無理な話だ。

再テストに関するもっと詳しい情報は、
ベルギーの『SKEPP』という、いわゆる「懐疑団体」のサイトに書かれている。
記事の日付は2010年2月18日。
ホーベン氏が利用している医療機関の求めに応じて、
この団体がテストに参加したということのようである。

Facilitated Communication with coma patient is fabricated
http://skepp.be/en/gezondheid/alternatieve-behandelingen/gefaciliteerde-communicatie/facilitated-communication-coma

特に気になったところを部分的に抜き出して訳してみる。

>キーボードがファシリテーターの視界から隠された途端、
>文字入力はめちゃくちゃになり、止まってしまった。
--------
>FCがデタラメであるとしても、それはホーベン氏に意識がある可能性を否定しない。
>しかし彼に意識があるのだとしたら、彼の名のもとに偽の言葉が綴られるのを、
>抗議もできないまま聞くというのはどんなに彼を失望させることだろう。
--------
>今日の電話で、ホーベン氏の母親は自分はまだFCを信じていると語った。
--------
>彼女はまた、最後にはロウレイズ博士が息子との会話方法を
>見つけ出してくれるはずだと確信している。
--------
>彼女の希望が現実になることを願おう。
--------
>この国際的なニュース報道は、多くの昏睡患者の家族に誤った希望を与えている。
>そして錯覚のFCの支持者らを不当な宣伝で後押ししてしまった。
--------
>今回のケースを国際的なメディアに発表することは、控えめに言っても時期尚早であった。


また『CSI』という、こちらはアメリカの懐疑団体のサイトでも、
一部重なった内容の記事が公開されている。
『Skeptical Inquirer』という会誌の2010年7~8月号に載った内容らしい。

Fabricating Communication
http://www.csicop.org/si/show/fabricating_communication/

「Controlled Tests with SKEPP」の段から
気になる部分を抜き出して訳し、また自分の言葉で補足を加えてみる。

>11月の動画でも紹介されていた、ホーベン氏の普段のファシリテーター、
>リンダはこのテストに使うことができなかった。

ロウレイズ博士いわく、リンダのFCによる会話では、
ホーベン氏はテストを受けることを渋っていた。
そのため一年半をかけて別のファシリテーターを探し、アンを見つけたという。
(ではロウレイズは、テストに不満足なまま11月の報道で確信ありげにコメントしたということ?)
アンというファシリーテーターがFCを行うと、
ホーベン氏は急に意見を変え、テストを受けることに同意した。
こういった経緯で、SKEPP参加のテストは実現したらしい。

>試験の始めと終わりに我々はホーベン氏と普通の会話を試みた。
>FCは万全に機能しているように見えたし、
>得られる文章は分かりやすく、ときには非常に精密であった。
--------
>あるテストでは、ファシリテーターに部屋から出てもらった状態で、
>ホーベン氏に大きく印刷された単語を見せ、何度も大きく読み上げた。
>それからファシリテーターを戻ってこさせ、
>ホーベン氏が先程の単語を書く手助けをさせた。
>よく整ったその単語は、しかし答えとして完全に間違っていた。


文字でなく簡単な絵を使用して同様のテストを行ったが、結果は同じく間違いであった。
ホーベン氏にヘッドフォンを付けてもらい、
それを通じて彼だけが聞くことのできる単語を入力してもらうテストでも、
やはり否定的な結果しか出なかった。

***

最後に挙げたCSIの記事では、
ロウレイズ博士についてもいろいろと興味深いことが書かれているのだが、
話が長くなりすぎるのでこの記事では触れないことにしよう。
ともあれ「コントロールされたテスト」の概要はこれで知ることができた。

このブログ記事の当初の目的は、
日本語での情報が少ない「第一報のその後」の部分までを、
最低限のまとまった内容として記述することにあった。

一連の話や、FCについて、様々な受け止め方があるだろう。
しかしどんな考えに行きつくにせよ、判断材料は多い方がいいと思う。
「ホーベン氏の症例」について興味を持った誰かが、
より多くの情報や議論に触れるきっかけとなれば幸いである。