松本清張作 『通訳』 あらすじ

徳川幕府の九代将軍・家重は言葉が不自由であった。
子供の頃から吃音があり、そのことにひどく劣等感を覚えていた。
弟の宗武は何においても優れており、そのことがまた家重の心を苦しめる。
恵まれた弟や、その彼に愛情を注ぐ父を家重は憎んだ。
そんな現実から目を逸らして色に溺れるうち、
病を患って、家重の言葉はますます不明瞭となっていた。

将軍がとても聞き取れないような声で命を下す。
部下たちがそれを当て推量で解釈した結果、意に沿わず、
家重がかんしゃくを起こすということがしばしば起こった。
しかしただ一人、大岡忠光という側近だけは
家重の言うところを正確に理解することができた。

実は忠光にとっても、家重の言葉は意味をなさない奇声だった。
病気の影響で表情を察することもできない。
それでも彼は直感で家重の意を汲み、将軍を満足させていた。
そうして忠光は将軍の「通訳」を務め、
側用人という腹心として重用されるに至ったのだ。
やがて側用人として将軍の思し召しを伝えるうち、
忠光の心の中には自信、あるいは驕りとも言えるものが育っていく。

誰も彼の翻訳した言葉を疑わぬし、彼も疑わなかった。
その彼が、病いの理由で、とつぜん、辞任した。
(松本清張作『通訳』より)

そのきっかけとなったのはウニだった。
一人の西国の大名が将軍と忠光にウニを献じた。
美味しいウニだった。
ある日、その大名が家重にあいさつの謁見をすることになる。
すると、いつもなら取り立てて返事などしない家重が、
何やら常ならぬ声を上げた。
忠光は焦った。将軍が何を言ったか分からなかったからだ。
焦って思いを巡らすうち、忠光はウニのことを思い出す。
美食家の家重がウニを褒めたのだと、忠光の勘はそう告げていた。
忠光は自信を持ってそのように「通訳」した。
家重は何も言わず、ただぼんやりとした目で宙を見つめていた。

それから数ヶ月後、忠光は将軍と食事をともにすることになった。
そしてその席で、実は家重はウニが嫌いであることを知る。
忠光はあの謁見の日の真実に気付いた。
おそらく家重は、憎い弟と仲の良かったあの大名に悪口を言ったのではないか。
彼の「通訳」はとんだ的はずれだった。
それなのに家重は彼のあやまちを責めはしなかったのだ。

忠光は、はじめて茫漠とした表情をしている家重の
内部に在る無類の善良さにたたかれたような気になった。
忠光は、自分の言葉が、今までどんなにたくさんに
家重の本意を裏切ってきたかを思って、
その場にうずくまりたいような衝動に駆られた。
忠光は、これ以上、〝通訳〟をつづけるのが恐ろしくなった。
(松本清張作『通訳』より/改行は引用者による)

史書にはただ大岡忠光の名通訳としての栄誉が記されている。