お転婆山姥今日もゆく -2ページ目

 お転婆山姥今日もゆく

 人間未満の山姥です。
 早く人間になりたい。

今年の冬は元日から、能登半島地震が起き、以来どこか思考停止したまま過ごして早8月である。
 
冬から春、重い気持ちが抜けず、何をどうして過ごしていたのかまるで思い出せないが、遠く過ぎ去った春は何度でも鮮やかによみがえる。
 
こちらでは、卒業式の頃はまだ寒さが抜けず、わざわざそれに合わせたように冷たい雪になることも多い。
4月、入学式の頃も、桜はまだなのだ。
岩手では、梅も桜も辛夷も、一斉に咲く。
それは4月も半ばを過ぎてからだが、暖冬だった今年の冬を過ごした桜は、なぜかいつもより遅かった。

せかされるように何かが始まり、いつの間にか渦に巻かれ弾き飛ばされないように過ごす時期が、桜の時期なのである。

私は高校卒業とともに家を出た。
壮大な夢も希望もなかった。
ただ
「一人で生きたい、自立したい」

父親の干渉とくだらない決め事と、変な宗教と、そんなものから逃れるためだけに、逃げたのだ。

卒業と同時に町を離れる友人はたくさんいた。
それぞれが都合のつく限り、駅に向かいホームで見送った。
私の時は友人のほとんどは新しい街に去った後で、進学組でも入学式の遅い、あるいは地元に残る小学校からの友人だけが来てくれた。

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息子や娘が大学に入るため家を出る日は、ようやく寒さが抜けそうな気配がしていた。

 

 

あの子たちのことだ、感慨や想いを洩らすのは進行形の今でなく、ずっと後のことになるだろうし、洩らさないままかもしれない。時折時計を見ながら、
今頃は無事入学式を終えた頃だろうか

着慣れないスーツで、困惑しながら食事でもしている頃だろうか

 

それぞれ入学時は、父親が付いていったから、過保護を迷惑がっているかもしれない。


そんなことを考えながら、娘が出て行ったその日は、冬が過ぎて初めて窓を全部開け放って風を入れた。

 

こまごました片づけをゆっくりした。

私はいよいよこの家を出る。勤務地が変わった。それは私が希望していたことでもあった。

 

 

 

 

開け放っても寒くない。

 

いいお天気になった。

 

 

 

北の国に一人残す母への、娘からの労いだと勝手に解釈していた。

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両親のもとを出てから10年が過ぎたころ、私はわが子を胸に抱いていた。
私は誰と笑っていたのでもなく、赤ん坊が私を見て笑ってくれた。

 

その後の10年は、10年後を想像することもなく、どこで何をしているかも考えつかなかった。

次の10年が過ぎ、闘いの渦に巻き込まれていたが、私はだれかのためだけに生き、そうすることで力をもらい続けてきた。
それからまた10年。
生きていることが信じられないでいる。
これからの10年、私は生きているだろうか。
誰と笑っているだろうか。私は夫や子供たちが笑っていてくれればそれでいい。