『竪琴の山』
紫とオレンジ色を混ぜたような西の空は薄いベールのような薄暮で
複雑な暗灰色に変わろうとしていた。
意気揚々とドラゴン退治でもする勇者気分でガレドビを旅立ってから、
20回目の落日だった。
そして、自分が勇者には程遠いと失望してきた18回目の落日でもあった。
焚き火の小さな炎が消えないようにしながらアロンは額にかかった髪を
羽虫でも払うように乱暴な手つきでかき上げ、何度目かの苛立ったような
溜息が焚き火の中に溶けていった。
「アロン。おい!あの山の稜線の向こうが『月の国・マティア』だと言ってたよな…それで?後どれだけ山を越えたら、その月の国とやらに行けるんだよ?」
さっきから、お腹が空いて倒れそうなザクートは焚き火の火を見ながら不機嫌なアロンに 大きな声をかけた。
「後、一つ峠を越えるだけだよ。忘れられた村の長がお前に言ってたじゃないか」
「そうだったかな?腹が減りすぎて物忘れがひどくなったみたいだ」
黒猫のアシュルの鼻を、乱暴な言葉とその大きな体とは不釣合いな、
節くれの無い綺麗な小指で撫ぜながら、ザクートはアロンと
同じような溜息をついた。
「朝の来ない国だって、ガレドビの太陽が消えてしまうってか?…アビシャクのじいさんも長生きしすぎて、ボケてきたんじゃないか?……おい、聞いてんのかよ」
アシュルと同じ柔らかくて、長く黒い髪をもてあそんでいる黒猫を
優しい藍色の目で見つめていたザクートは、黒猫を見つめる同じ眼差しで
アロンの方に振り向いた。
「アッ!痛っ。アシュル、腹が減ったからって俺の指を齧るんじゃない。アロン、俺たちも晩飯にしないか?お前も腹が減っているせいか苛ついてそうだし」
アシュルは急にザクートの小指に小さな牙を立てると、
緑の瞳を光らせながら足音も立てず、片方の耳に付いた
銀の小さな鈴の音だけを残して草むらの中に消えて入った。
アロンはアシュルの消えて行った草むらを見ながら
最後になった食料の乾し肉と、最後に通った村で分けて貰った
葡萄酒の入った皮袋をザクートに投げつけた。
「最後の晩飯だ、これからはアシュルの餌を別けてもらうんだな」
「おい!マジかよ。マティアを探すよりも大問題じゃあないか!」
「お前が大飯食らいだから計算より早く食料が無くなってしまったんだぞ!」
ここ数日聞かなかったような大きな声でアロンは怒鳴った。
「この体を維持するには、日に5度は飯を食わないと動かなくなるんだよ。ところで、お前は食料が無くなったんでイライラしてんのかよ」
最後の食べ物だからと食べ残す事を知らないザクートは、
まるで誰かに取られるみたいに、かたい乾し肉を千切っては口に入れ
4・5回咀嚼しただけで葡萄酒と一緒に胃の中へ流し込んだ。
最後の一口になった乾し肉を、名残ほしそうに見ていたザクートは
覚悟したように、腰にさげていた葦で編んだポーチの中に放り込んだ。
食事に行ったアシュルが狩りに失敗した時の為に。
ガレドビから西へ進み、
赤い砂漠を越え忘れられた村を過ぎて、竪琴の山の稜線を越えた
森の中にあるマティアは、馬で行けば10日もあれば辿り着くだろうと
アビシャクに教えられていたのだが…
2日目の夜に着いた赤い砂漠で砂嵐にあったアロン達は、愛馬のトロを
砂漠の砂の中に住む腹の空かせた赤黒い毛の幼獣モゲラの餌食になるのを
助けられなかったのだ。
アビシャクから、日が暮れるとモゲラは活動するので赤い砂漠には
入らないように注意されていたのに…。
「ザクート、日に日に太陽の昇る時間が短くなっていくのが怖いんだ」
不機嫌だったアロンが消えかけてる小さな火を突きながら呟いた。
「あの時、赤い砂漠でトロを助けられていたら……今頃は、マティアに着いてたんだよな。いや!そんな事より、僕のせいでトロが死んだんだ…この先、どんな事が起こるんだろうと考えるたら、怖くてしかたないんだ」
薄いベールの薄暮は濃い暗幕を引いたような空に変わっていた。
ザクートからは
小さな焚き火の火で影になったアロンの横顔しか見えなかった。
「なんだよ、お前の勇ましさは高い塀に守られた城の中だけだって事を告白してるのか?…勇者や英雄ってヤツは」
話の途中で『ポキっ』と乾いた小枝が折れる音がザクートの言葉を遮った。
「まぁ…、ココまで来て引き返せないだろ?後、一山越えたら月の国に着くさ。
それに、竪琴の山は精霊に守られた山だから心配する事はないさ。アロン」