25/12/28(日)礼拝説教
旧約サムエル記上1:20-22, 24-28、新約ルカ福音書2:41-52
「主イエスと家族」

 

 聖書箇所は、日本キリスト教会の聖書日課に従っています。
 旧約のサムエル記は、預言者サムエルが誕生する経緯が述べられています。母ハンナは年をとっても子が無く、もう一人の妻には沢山子どもがいました。ハンナはある時神に深く祈りました。すると、もう生まれないと思っていた子どもを授かり、その子をサムエル(「その名は神」という意味)と名付けました。預言者サムエルの誕生です。そして、乳離れし、3歳になった時、ハンナは祭司の下にサムエルを預け、神に捧げました。
 これが預言者サムエルの誕生物語です。
 新約で、年をとっても子が無く苦しんでいた祭司ザカリアの妻エリザベト(洗礼者ヨハネの母)と似た境遇です。その中から神は胎を祝福し、子をなして下さったのです。そして、その子は神にささげられ、神の御子で救い主である主イエスの進む道を整える役割を果たすことになります。
 さて、本日の新約の聖書箇所は、主イエスが12歳の時に起こった出来事が記されています。他の福音書には無いことです。他の福音書では、主イエスの誕生の物語の後、いきなり公生涯を送られる30歳になっています。そのような意味で、数少ない主イエスの少年時代の記述と言えます。
 主イエスが12歳になった時、両親は祭りの慣習に従って都に上りました。これは神殿詣をすることを指します。両親は敬虔な人物だったのです。集団で行ったようなので村の者達とまとまって行動していたのでしょう。しかし、帰路、両親は主イエスを見失います。
 この間、主イエスは神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話を聴いたり質問したりしていました。これは律法学者と問答していたということです。今のユダヤを支配する律法の理解がどうなっているのかについては開かれていたのでしょう。そして主イエスは準備して公生涯に向かわれるのです。
 ここで、母の問いに「自分の父の家にいるのが当たり前」と言われていますが、これは主イエスの将来を暗示する言葉なのです。
 

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25/12/21(日)礼拝説教
旧約ミカ書5:1、新約ルカ福音書1:39-45
「告知」

 

 本日の旧約、ミカ書を記した預言者ミカは、紀元前8世紀の預言者です。生涯の最後の四半世紀にユダ王国で活動しました。予言の多くは堕落して乱れたイスラエル全体に向けての批判と悔い改めについてです。ミカの出身地はエルサレム南西のモレシュトですが、この町はアッシリアの侵攻によって破壊占領されています。預言者ミカは王国の終わりを肌で感じ取った人物でした。故に、エルサレムが破壊することに執着せず抑圧者層に近い立場に立ちますが、活動はモーセ以来のイスラエルの預言者的精神に導かれた人物でした。
 本日の聖書箇所は、バビロン捕囚に由来する困難な状況の中にあって、未来の平和、メシアの誕生とその指導による解放、敵の撃退を待望する預言集です。その中で5:1はメシア預言がなされてきたものとして、キリスト教ではイエス・キリストの誕生の予告と解釈されてきました。それは正確にダビデの出自をたどりながら、民族の新たな支配者の出現を予告します。エフラタとはダビデの属する一族で、ベツレヘムはダビデの出生地です。
 このようにミカ書5:1では、主イエスはダビデの末裔として生まれ、人類を救済する存在としてお生まれになると預言するのです。
 そして新約時代に入り、マリアに天使がお告げを告げ、聖霊によって身ごもります。マリアはユダの町に行ってザカリアの家に入って主イエスの道を真っすぐに整える役割を果たす洗礼者ヨハネを身ごもっているエリザベトと挨拶します。
 その時、エリザベトの胎で洗礼者ヨハネが踊ります。
 ダビデの末裔のヨセフの妻から主イエスが生まれ、祭司の系譜のザカリアの妻エリザベトから洗礼者ヨハネが生まれる。
 預言は成就し、救い主を先駆者は強調し、これから時代が変わって行くことを予兆するのです。
 

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25/12/14(日)礼拝説教
旧約ゼファニヤ書3:14-17、新約ルカ福音書3:10-18
「先駆者」

 

 洗礼者ヨハネは、イザヤ書40:3にある、主の道を整え、その道筋をまっすぐにする役割を与えられて、神により選ばれ世に送られ、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。
 本日の新約聖書の聖書箇所は、この悔い改めの洗礼を受ける時の、洗礼志願者との信仰問答です。
 群衆がどうすれば良いのか、に対してヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えます。これは小さな行いですが、しかし神と隣人への大いなる愛の業です。それゆえに、この倫理的教えは続く徴税人への「規定以上のものは取り立てるな」、兵士への「だれからも金をゆすり取ったりするな。自分の給料で満足せよ」という教えに発展的に続いて行きます。徴税人ザアカイのように徴税の執行権を乱用して私腹を肥やす者への警告であり、そこからの悔い改めです。兵士は現在の警察のような役割もありましたので、倫理規定がしっかりしていなければ、人々の生活が成り立たないのです。故に兵士には倫理に反した行為を禁じます。このように職業倫理、社会倫理を示唆します。
 このような指導を人々に行うヨハネに対して弟子たちはメシア像を見ていたのでしょう。しかし、洗礼者ヨハネは、自らよりも優れた方がいらっしゃる、と主イエスの到来を示します。洗礼者ヨハネは水による洗礼を授けるが、来るべき方、メシアは、聖霊と火による洗礼を授けられる。救いと審判を両方メシアは持って到来するというのです。
 

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25/12/07(日)礼拝説教
旧約マラキ書3:1-4、新約ルカ福音書3:1-6
「神のことば」

 

 マラキ書自身は旧約で最後にしるされた文書ではありませんが、その内容は、新約に繋がるように、救い主の誕生の預言で締めくくっています。
 しかし、その救い主の到来は、マラキ書によれば、突如現れ、人々を精錬する者の火、灰汁のようだと記されます。
 救い主の到来は、マラキ書の文書では、非常に厳しく審判する者の到来のように記しているのです。それに誰が耐えうるか、とも記されます。そして、主イエスの神殿清めに現されるように、レビの子らを清め、汚れを除き、献げ物を正しく献げる者とさせる、と記されます。それはユダヤでは遠い昔の日にそうであり、神様に好ましいものであった。そのように救い主は清められる、と言われます。
 主イエスが誕生した時代のユダヤ人にとっては大変厳しいものです。
 そして、その道を備えるために、洗礼者ヨハネが前もって遣わされます。その者は「荒野で叫ぶ者」であり、人々を審判し、悔い改めさせるための洗礼を行わせるものです。ヨハネは、人々を「蝮の子」と呼びます。それは、遠く失楽園の物語の時、人を唆した蛇を連想させるものです。賢さだけは成長しましたが、神への正しさ、という面では到底基準に達しない者達、という意味でヨハネは述べたのでしょう。
 このように、主の道を備える洗礼者ヨハネは、苛烈であり、厳しい審判者であり、同時に人々を悔い改めへと導く伝道者でもあったのです。
 

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25/11/30(日)礼拝説教
旧約エレミヤ33:14-16、新約ルカ福音書21:25-28、34-36
「希望」

 

 ルカ福音書はユダヤ戦争と並行して記された記録です。
 ローマ軍がエルサレムを取り囲み、神殿の冒涜と破壊だけではなく、都のローマ軍によるは崩壊という歴史的出来事に、時のしるし(その滅亡が近づいた)を人々は見ました。人々は都を立ち退き、ユダヤから山の中へ逃れ、多くのユダヤ人が異邦人によって殺され、捕虜となります。
 このような戦争によるエルサレムやユダヤの崩壊とは比べられないほど大きな、宇宙規模の大激変が起こると預言されます。その中で、諸国民(世界の民)は恐怖に打ち震えます。
 しかし、その時、人の子(主イエス)は全世界の審判者として到来されます。その時、主イエスは栄光を帯びて雲に乗ってくる、とされています。その時、キリスト者は身を起こして頭を上げ、救いへの希望と期待をもちなさい、と主イエスは教えられます。なぜなら、キリスト者はこの時代ユダヤ人からもローマからも弾圧される存在であったからです。そのような弾圧に苦しむキリスト者に、主イエスは、危機と苦難から救い出すために、必ず来られる、ということをお示しになられるのです。
 しかし、このように教えると、必ず「放縦や深酒や生活の煩い」で心が鈍くなるものが生じます。キリスト者だから自分は大丈夫だ、というようなおごり高ぶりに立ってしまうのです。
 主イエスは、突然の終末の到来に備えて、刹那的な快楽や生活の煩いに心を奪われることがないようにとの勧告を行います。その時が自身の救いの時となるように、「いつも目を覚まして祈りなさい」と教えます。
 また逆に、終末がまだ来ないということで、この世的な生き方に埋没しないように心しなければなりません。
 終末はいつ来るか分かりませんが、必ず来ます。それまでの生をどう生きるかは、特にキリスト者にとっての課題となるのです。
 

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25/11/23(日)礼拝説教
旧約申命記29:1-3、新約マタイ福音書13:1-23
「種を蒔く人」

 

 有名な「種蒔きのたとえ」です。
 13章には7つの譬えが集められていますが、主イエスは折に触れて多くの譬えを語られたので、この章に収録されている譬えも色々な状況で語られたものが一つにまとめられたのでしょう。マタイの所属していた初期の教会には、主イエスの「たとえ集」がまとめられていたのでしょう。マタイはここから、福音書に譬えを取り入れていたと考えられています。
 主イエスは家を出て湖畔に座られていましたが大勢の群衆が集まってきたので、舟に乗って腰を下ろされて、たとえを用いて多くのことを語られました。その中の一つのたとえが「種を蒔く人」のたとえだったのです。
 農夫は種を蒔きます。ある種は道端に落ち鳥が食べた。他の種は石だらけで土の少ないところに落ち、土が浅いのですぐ芽が出たが日が昇ると焼けて、根が無いために枯れてしまった。他の種はいばらの間に落ち、いばらが伸びてそれを塞いでしまった。ところが他の種は良い土地に落ち、身を結んであるものは百倍、ある者は六十倍、あるものは三十倍にもなった。
 これは天の国の秘密が隠された話です。分かる者には分かるが、分からない者には分からない、一種の暗号です。これほどはっきりと区分けされるのは、それだけ初代教会の置かれた状況が厳しかった。特にユダヤ教側からの圧迫が強かったことがあります。理解しない者ではなく、理解出来る者になり、御国へと招かれる道へと入りなさい、という意味が込められます。
 譬えは、道端にまかれたのは、御国の言葉を聴いて悟らなければ、悪いものが来て、心の中に蒔かれたものを奪い取られる。石だらけの場所に蒔かれた者は、御言葉を聴いてすぐ喜んで受け入れるが、根が無いので御言葉の為に艱難や迫害が起こるとすぐに躓いてしまう者。いばらの中に蒔かれたとは、御言葉を聴くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆い塞いで実らない人。そして、良い土地に蒔かれた者は、御言葉を聴いて悟る人で、あるものは百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。
 多くの者が躓くが、躓かずに、御言葉を受け入れて大きく成長させられる道を進むことを主イエスは望むのです。
 

※説教のビデオ撮影は失敗しました。申し訳ありません。

 時々、ビデオが途中で止まってしまいます。ビデオ撮影の前に再起動すると、以前は止まらなかったのですが、最近は再起動しているのですが、途中で止まることがあります。調べています。

25/11/16(日)礼拝説教
旧約ヨブ書1:6-12、新約マタイ福音書12:43-50
「主にある兄弟姉妹」

 

 聖書箇所は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、主イエスにより癒やされたこと(12:22以降)を、ファリサイ派達は悪霊の頭ベルゼブルが悪霊の力によって追い出さなければ、悪霊は追い出せはしない、と主イエスの力を決めつけた文脈の流れの中にあります。
 主イエスは言われます。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来た我が家に戻ろう』という。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」。そうすると、その人の状態は前よりも悪くなる。と言われ、「この悪い時代の者達もそのようになろう」と、皮肉を交えて話すのです。
 すなわち、悪霊を追い出した後、主イエスをメシアとしてそこに迎え入れなければならない。そうでなければ、以前よりも悪くなる。ということを言われるのです。
 これは単に、悪霊を用いて主イエスの批判をするファリサイ派批判に留まらず、時代が主イエスを受け入れずに、主イエスと弟子たちは一生懸命悪霊退治を行っている故に(実際は悪霊退治ではなく、主イエスの神の力による救済)、その隙間に以前よりも強力な悪霊が住み着く、という警告でもあるのです。そして、マタイは主イエスを受け入れなかったため、紀元70年代のユダヤ戦争でエルサレムは陥落してしまう、という立場を取りますから、イスラエルが主イエスの宣教を拒否したために、こうなった、というように考えているのです。
 

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25/11/09(日)礼拝説教
旧約ヨナ書2:1-11、新約マタイ福音書12:33-42
「しるし」

 

 聖書箇所で主イエスは、33節では「木が悪ければその実も悪い。木の良し悪しは結ぶ実で分かる」と宣ベられ、35節では「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と宣ベられます。
 すなわち外に出たものが中を示すと主イエスは言われます。
 前週の聖書箇所では、群衆は主イエスをメシアと認めましたが、ファリサイ派は主イエスを「悪霊の頭」だと非難しました。このような人の発言が彼らの本心をよく現されている、ということを述べるのです。そして、積み重ねられた発言内容によって人は終末の日に裁かれることを主イエスは宣ベられます。
 すなわち日ごろの言動が神のみ心に適っているかどうかが、終末の時に問題にされることを述べられます。故に、日頃の言動に気を付けろ、というよりも、言動の源にある人の内面を改めろ、という示唆を主イエスは行われるのです。
 次の段落ではファリサイ派と律法学者が「しるしを見せろ」と主イエスに求めます。
 ファリサイ派と律法学者らは、主イエスの力ある数々の働きを見聞きして認めざるを得なくなり、さらに、彼らのこじつけ(ベルゼブル論争)も論破されてしまいました。そこで「しるし」を求めます。「しるし」とはこれまで以上に強烈な見まごうことのない神の力に根差した奇跡であり、主イエスがメシアであることをはっきりと示すものを指します。彼らはこれにより主イエスを最終判断しようとしたのです。
 主イエスはそれを見抜いて、ヨナ書2:1以降を引用し、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいる、と宣ベられます。この主イエスのことばが、主イエスの死と葬りと蘇りを示すものなのです。
 そして、主イエスは論点を変えて、ニネベ異邦人であるニネベがヨナの話を聴いて悔い改めたことを話し、主イエスを前にファリサイ派らは悔い改めない故に、自らを選民と誇る者達よりも異邦人に救いの中心が向かうというような示しを与えます。
 

※ビデオ撮影は失敗してしまいました。ビデオはありません。申し訳ありません。

25/11/02(日)礼拝説教
旧約イザヤ49:22-26、新約マタイ福音書12:15-32
「ベルゼブル論争」

 

 前週の聖書箇所では、主イエスが手の萎えた人を安息日に癒したのを見たファリサイ派が、主イエスを殺そうと相談したところで終わっていました。
 主イエスはそれを知って、そこを立ち去り、大勢の群衆が従いました。主イエスはさらに安息日に、「皆の病気を」を癒やして、ご自分のことを「言いふらさないように」と戒められました。まだ、主イエスの本当の目的(エルサレムで十字架に架かる)に達するには早いとの判断のもと、自身を必要以上に目立たなくさせておきたかったのだと思われます。
 聖書はここでイザヤ書42:1-4を引用して、主イエスが神の選んだ僕であり、神の心に適った愛する者であり、神の霊を授け、異邦人に正義を知らせる器とすることを宣言されます。この聖書箇所によれば、主イエスは争わず、叫ばない。傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない、と続けられます。
 この時、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が主イエスの許に連れられてきて、主イエスが癒されると、ものが言え、目が見えるようになりました。群衆は「この人はダビデの子ではないだろうか」といったが、これを聴いたファリサイ派は、それは「悪霊の頭ベルゼブルの力に寄らなければ悪霊を追い出せはしない」と主イエスの神の力を否定します。
 主イエスはファリサイ派を批判して、ファリサイ派の論理には矛盾があり、「悪霊が悪霊の力で争えば、内輪もめになってしまう」と言われます。
 主イエスは、神の霊の力で悪霊を追い出しているのであり、それならば、「神の国はあなたたちのところに来ている」と述べます。まさに神の御子で救い主である主イエスが来られたのは、人々の罪を贖い、人々が、神を全てを尽くして愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する、そのような世を創り出すためであり、それは、神の国を予見させるものなのです。
 

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25/10/26(日)礼拝説教
旧約申命記23:25-26、新約マタイ福音書12:1-14
「安息日論争」

 

 安息日規定は、神が天地創造の業を6日で終わらせ、7日目を休みとしたことから、神がその日は休まなければならないと決められた律法です。安息日が順守されることは律法として当然であるとされてきました。
 出エジプトの出来事の時に律法が定められ、安息日規定が設けられました。しかし、安息日規定が強化される出来事がありました。それがバビロン捕囚です。イスラエルが神の目に悪と映ることを行った故に国は分裂し、それぞれの国が異教へと走ってしまったため、北王国はアッシリアに南王国はバビロンに滅ぼされ、指導者層はバビロンへ捕虜として連行され、そこで40年以上捕囚されていました。しかし、神様はそのままにはされず、ペルシア王キュロスを立て、バビロンを打ち破りバビロンに囚われた各国の人々を解放しました。イスラエルも解放されました。そして帰路に立ったのですが、バビロンで生活が成り立ったものなどもあり、もめた上で残る者を残して帰路につきました。しかし、イスラエルに着いてみると、捕虜とされなかった者達が、捕虜とされた者達の土地・家屋・財産を所有し、堕落した生活をしていました。神殿も崩壊したままでした。そこから回復する時、安息日規定を特に尊重する律法順守が行われるようになったのです。
 加えて紀元前2世紀の自らを現人神とするシリア王に占領された間の苦難を乗り越え復興する道で、再び安息日規定を特に尊重しながら律法順守を行う風潮がなり立ちました。
 弟子たちが空腹になったので、麦の穂を手で積んで食べるのは、律法で許された行為でした(申23:25-26)。また主イエスは安息日に会堂に入りました。礼拝をするためです。しかし、そこに片手の萎えた人がいたのを見て、癒されました。過度に尊重されている安息日規定よりも優先するものがあるだろう、ということをあえて人々に示し、考えを改めて欲しかったからです。
 

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