今日は、小さな随筆誌「紅」67号 「表紙の風景...6 津軽の海」を紹介します。
私は、この随筆を読んで修学旅行で青函連絡船で津軽海峡を渡ったことを思い出しました。
あまりに船酔いで気持ち悪くなって団体用の船室でずーっと横になっていました。
私は、この随筆を読んで修学旅行で青函連絡船で津軽海峡を渡ったことを思い出しました。
あまりに船酔いで気持ち悪くなって団体用の船室でずーっと横になっていました。
67号 (1967 11・1) 表紙 「表紙の風景...6 津軽の海」 なん度か渡った津軽海峡だが、いつも静かな海であった。三等の船室でゴロリと横になる。船酔いをさけるため、まず、ねむることであった。眼がさめると間もなく函館、坐り直してあらためて船室を見回わす。ボーイさんがお茶を運んでくる。あちらの方から順々にやってくる。なんとなく飲まねば悪い気がして手を出す。そして五十銭玉を盆の上に落とす。 この話をきいて母は、五十銭もかえ、といった。津軽海峡を渡るのは、東京に出て立身出世をするためであった。何度目かの上京で本郷のある研究所をたずね、記名料十円と月謝三円五十銭を支払った。私は記名をしなかった。生き馬の目を抜く東京の生活は、はげしく、次の月に来る当もない日々であったからである。 さあ、すぐ描きなさいとアトリエに案内される。扉をひらくとモデルが台の上につったっていた。はじめて裸体をみた私は思わずハッと息をのむ。なんとまあ、かがやくばかりの美しさであろう。そうだ、これが画家になる第一歩なのだ。日がたつにつれて、このモデルのしぼんだ乳房、しまりのない腰、ゆるんだ皮膚、チェッと舌打ちしながら描くようになった。けれど、はじめの印象は鮮烈に残る。二・二六事件があり、四月の声をきくと、私は郷里に舞い戻った。東京は、私如きものをそんなに簡単に出世をさせてはくれなかった。 津軽の海よ。想い浮かべると、それは満々とふくれあがる。そのときもお前は、あたたかで静かであった。 父は、どうだったときいただけである。 |
現在、市立小樽美術館
で5月26日(土)~7月1日(日)まで、森本三郎展を開催しています。是非、北海道内にお住まいの方や観光で小樽に来る際には、お立ち寄りください。 なお、今回は森本三郎・光子の魅力を多くの方に知ってもらいたいとの願いから、支援していただいている方々の協賛により特別に一口株主(特典:豪華200ページの図録2冊、三郎展と光子展それぞれ1回入場可能な特別招待券2枚をセットでお届けします)を限定200口 3,000円で募集しています。(追記:好評に付き200口の応募は完了しましたが希望者が多かったため急遽100口追加募集することになりました。) 興味のある方は、市立小樽美術館 までご連絡ください。 |