今回紹介する記事は
2023年12月21日付けの
 
「朝日新聞」の記事です。
  
【受験シーズン 火事場の親子 見かけたら】


というタイトルで、
臨床心理士東畑開人氏が、
年末は心が摩耗しすぎないように願うことについて、
紹介しています。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

  ☆新聞記事の紹介について

(発信者が重視するテーマに関してはこちらをご覧ください)

始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

 もうすぐ年末。

仕事のラストスパートに励んでいる読者も多いことだろう。

だけど、
そんな年末から火事場に突入する子どもたちがいる。

中学受験生だ。

多くの入試が年明けに行われるから、
年末年始も関係ない猛勉強がなされる。

親も必死だ。

頑張れ、
最後の最後まで学力は伸びる、
限界突破、
火事場の馬鹿力だ。

親子一丸となったラストスパートがなされる。

 人生の中で一つの目標に向かって邁進する時期があることは、
基本的には素晴らしいと思う。

だけど、
それがいつも功を奏するわけじゃない。

 私がそうだった。

もう30年近く前の年末、
私は小学6年生で、
火事場のど真ん中にいた。

ここが天下分け目の関ヶ原、
と不安の炎をあおる大人たちに囲まれ、
私はマシンと化し、
分刻みの殺人的勉強スケジュールに取り組んだ。

すると、
何が起きたのか。

あろうことか成績が低下したのである。

 頭が煙に包まれ、
晴れなかった。

そのまま受験シーズンに突入し、
第1志望から滑り止めまで、
結局ほぼすべての入試に落ちた。

それだけではない。

後遺症が残った。

唯一合格をくれた学校に入学した後も、
全く勉強ができない体になっていて、
成績が底辺をさまよう時期が長く続いた。

 火事場で馬鹿力が出る人もいるかもしれないが、
私の場合、
単に馬鹿になったということだ。

振り返ってみると、
うつだったと思う。

だって、
そうじゃないか。

炎に囲まれたら、
極度の不安によって心は消耗し、
頭は正常に作動しなくなる。

 心理士として働くようになると、
同じように火事場で疲弊しきった子どもたちと出会うようになった。

中学受験だけではない。

音楽にせよ、
スポーツにせよ、
幼いころから火事場で極限的な努力を続けてきた子どもたちだ。

共通していたのは、
一つの価値に基づいて生活が組織化されることだ。

 たとえば、
甲子園を目指すことが家庭の至上価値になると、
生活のすべてが野球の上達にひもづけられる。

睡眠は練習の疲れを効率的に回復するために、
食事は筋肉をつけるために設計され、
トイレにまで握力トレーニング機器が置かれる。

親はコーチになり、
子どもは選手になる。

つまり、
野球だけで評価されるようになる。

このとき、
子どもは毎日暮らせる合宿所を手に入れるが、
家庭を失ってしまう。

 火事場になるとはそういうことだ。

逃げるか、
焼け死ぬか。

火事場には価値が一つしかない。

しかし、
家庭とは本来価値が複数ある場所なのだ。

家族が協力して甲子園を目指すのもいい。

でも、
家とは甲子園のため「だけ」にあるものではない。

あるいは、
家が勉強の場所であってもいいけれど、
同時にそこは休養の場所であり、
時に撤退するための場所でもある。

家庭とは逃げ込める場所であるから心を支える力があるわけで、
火事場のように走り続ける場所になってしまうなら、
いつか炎は子どもに追いついてしまう。

 いわゆる「教育虐待」の本質はここにある。

元九州大学生による両親殺害の事件を思い出す。

彼は幼少期から父親に成績のことで叱られ続け、
「失敗作」だとののしられたという。

 勉強という価値だけが原理になり、
家庭を支配する。

音楽も、
スポーツも、
宗教だってそういう原理になりうる。

親が一つの価値だけに固執して、
子どもにそれを強制するとき、
心は見失われる。

マシンになるとは、
心を失うことなのだ。

 ようは、
勉強だけが人生じゃない、
という凡庸なことを書いている。

ただ、
カウンセリングをしていると、
そのような正論がいかに無力かを思い知らされる。

本音が漏れる。

気付く。

子どもだけじゃない。

親もまた火事場に追い込まれている。

 家族と同じように、
社会もまた本来は複数の価値が入り乱れている場所だ。

様々な生き方がなされる場所だ。

それなのに、
親たちは社会を勉強という単一の価値で、
すべてが判断されるシビアな場所だと感じている。

親もまた仕事で、
生活で、
単一の価値を強いられているからだ。

だからこそ、
子どもに言わざるを得ない。

限界突破、
火事場の馬鹿力だ、
と。

 結局、
必要なのは正論ではなく、
つながりなのだろう。

 人は孤独になるとき、
ひとつの価値に執着せざるを得なくなり、
つながりの中にあるとき、
複数の価値に目が向く。

だから、
この原稿は火事場の親に無力な正論を押しつけたくて書いているわけじゃない。

周囲にそういう親子がいたら心配の声をかけてほしくて書いた。

その声も響かないかもしれない。

それでも、
火事場の外にも世界があることを少しは伝えてくれるはずだ。

その「少し」のつながりの価値を私は信じている。

 もうすぐ年末。

時間が日常とは違う流れ方をする時期だ。

社会に流れる複数の時間を感じる時期だ。

そういう時期に勉強に励む子供たちがいる。

立派だし、
頑張ってほしい。

同時に、
心が摩耗しすぎないようにと願っている。

健闘を祈るし、
健康も祈る。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

火事場の親子について、
紹介した記事のため。


(3)自分はどう思うか?

頑張れ、
最後の最後まで伸びる、
限界突破、
火事場の馬鹿力だ。

それがいつも功を奏するわけじゃない。

単に馬鹿になった。

御用納め当日は午前中に帰っていく人間が大半の中、
ただ一人残業をし、
翌日は通院後に休日出勤して残業し、
翌々日も朝から休日出勤して残業し、
年内の業務がようやく終わる。

毎年この繰り返しだが、
上層部から決まって言われる言葉、
「早く帰れないのか?」

目先の利益を追及したしわ寄せ・後始末・尻拭いをする羽目になっているのだが…。

こんなことが約十年続くと、
毎年年末年始の休暇は燃え尽き症候群の如くなり、
部屋の大掃除や整理整頓をする気力もなく、
食っちゃ寝でダラダラ過ごすことでしか心身を回復できない様式美が相成る。

これではいけないと自己嫌悪で年始を迎えながら、
少しずつ掃除や整理整頓に動き出すと、
御用始前に仕事の準備のため出社しなければならない日が来るので、
また悪循環が始まる…。

年末年始休暇は光陰矢の如しである。

今回の記事は、
そんな自分を戒める記事としてスクラップした。

病院からも休みは休みなさいという話もされ、
うつの一つと思われる紹介もされた。

年末年始は育成年代の全国大会が開催される。

毎年目にする度に、
選手の家庭は火事場になっていないかと思えてならない。

逃げるか、
焼け死ぬか。

時間が日常とは違う流れ方をする時期だからこそ、
今一度問いたい。

健闘とともに健康を祈る。


(4)今後、どうするか?    

・東畑開人氏に関する記事をスクラップする。

・火事場の馬鹿力に期待しない。

・火事場の外にも世界があることを忘れない。


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。
  

東畑開人氏に関する記事は、
以前も紹介しました。

年末年始にこそ読んでほしいと思う記事です。


皆さんも、
家庭とは休養の場所であり、
撤退するための場所であり、
逃げ込める場所あることを忘れないで下さい。

心を支える力が火事場にならないよう、
努めていただけると幸いです。