今回紹介する記事は
2023年10月7日付けの
 
「朝日新聞」の記事です。
  
【臨時国会召集「内閣の義務」 裁量権 歯止めかけぬ「憲法の番人」 立法措置で解決の道を】


というタイトルで、
編集員豊秀一氏が、
憲法53条における内閣の臨時国会召集は「義務」であると最高裁判決が認め、
20日以内に召集すべきという指摘は少数意見でも重要であることについて、
紹介しています。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。
 
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始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

 最高裁における「憲法の番人」としての存在意義が問われた判決が、
あった。

明らかに憲法違反だと思われることを内閣がしたとき、
司法は歯止めをかけられるのか、
それとも目をつぶるのか。

 憲法53条はこう定める。


「内閣は、
国会の臨時会の召集を決定することができる。

いづれかの議員の四分の一以上の要求があれば、
内閣は、
その召集を決定しなければならない」

 野党の議員は2017年6月、
森友・加計学園問題の解明のためだとして臨時国会を開くよう求めた。

安倍晋三一味は外交や法案の準備などを理由に98日間応じず、
憲法の規定を無視するかのような対応を取った。

9月28日に召集すると審議を行うことなく、
冒頭で衆院を解散した。

 このため、
野党の議員らが原告となり、
国会賠償などを求める訴訟を起こした。

 きっかけは、
当時の高井崇志衆院議員が、
賀川慎太郎弁護士につぶやいた一言だった。

「森友・加計学園の問題を追求したいと思っても、
安倍晋三一味は臨時国会の召集に応じない。

裁判を起こせないか」。

弁護団をつくり、
法的な理屈を詰めていった。

 裁判では、
安倍晋三一味の対応が憲法53条に違反するかどうかが焦点となった。

 53条後段における特徴の一つは、
召集を要求できるハードルを「4分の1」にさげていることだ。

国民の代表である議員について、
少数派であっても、
内閣をチェックして、
国会に説明責任を果たさせることが期待されていた。

 日本国憲法の原案を審議していた帝国議会の特別委員会で、
金森徳次郎はこう述べている。

 「議会を臨時招集する権能というものは、
むしろ少数に認め、
少数の人が要求しても議会は開かれる。

ここに少数派の意志も十分主張し得る機会も出てくる」

 召集を遅らせ、
解散して審議をしないのは、
少数派の尊重という趣旨を骨抜きにするものだ。

にもかかわらず、
安倍晋三一味のような対応がまかり通ってきた。

 菅義偉一味が2021年に臨時国会を開いたのは、
野党が要求してから80日後。

予算審議のためではなく、
岸田文雄一味交代のためだった。

なぜ、
こうした対応が許されてきたのか。

 いつ召集するのかは、
内閣に広い裁量権があるというのが政府の立場だ。

菅義偉は会見で、
「召集期日について憲法上の規定はない」
と述べている。

 果たして、
政府の見解は適切なのか。

内閣は広い裁量権を本当に持っているのか。
三権分立を担う司法として内閣をただすことができるのかが、
裁判で問われた。

最高裁における多数意見は、
憲法の番人に期待されるものとはほど遠い内容だった。

国会議員に対する権利侵害はなかったとして、
53条について詳しい解釈を示さないまま訴えを退けた。

 地裁や高裁では、
最高裁と同じように訴えを退けながらも、
政治に歯止めをかけようとする姿勢がうかがえた。

 注目したいのは、
裁判官5人のうち1人の反対(少数)意見だ。

行政法学者出身の宇賀克也裁判官は、
多数意見があまり触れなかった53条の詳しい意味に関して、
論理的に分かりやすく語っている。

 召集の「合理的期間」について、
20日あれば十分だという指針を示した。

自民党の憲法改正草案が、
召集時期を「20日以内」としたことも根拠の一つとした。

 憲法の制定過程における議論にも言及。

少数派のイニシアチブによる臨時会の召集を可能にすることを主眼にするものだと、
53条の趣旨を解釈した。

その上で、
「臨時国会が違法に召集されないことで国会議員の活動を妨げられれば、
国会賠償法上の損害賠償請求も認められる」
としている。

 裁判所の違憲審査制は、
憲法81条で定められている。

行政や立法をチェックする役割がある。

三審制のなかで、
違憲かどうか最終的に判断するのは最高裁だ。

 今回の裁判では、
憲法53条の意味が初めて本格的に問われた。

 提訴から5年余。

結論は原告敗訴だったが、
裁判を通じて53条の重要性が改めて認識された。

死文化しかけた憲法53条後段に息を吹き込む作業だった。

私たちの「不断の努力」がないと、
憲法はただの紙切れになりかねない。

少数派の尊重という民主主義の土台を損ねる政治を許していいのか。

選挙や最高裁裁判官国民審査の権利がある。

私たちも問われている。

 「統治行為論」という言葉がある。

高度な政治性がある事案については、
裁判所は判断することを控えるべきだという考え方だ。

 最高裁が判決で統治行為に言及した代表的なケースは2件ある。

憲法7条を根拠に内閣が衆院を解散した事の合憲性が争われた「苫米地事件」と、
米軍駐留を巡る「砂川事件」の判決だ。

宍戸常寿・東京大学教授は、
「司法権の限界が強調された時代に統治行為論は生まれた」と話す。

 今回の裁判でも争点の一つとなった。

被告の国側は、
「臨時国会の召集決定や召集時期の判断は高度に政治性を持ち、
裁判所の司法審査権は及ばない」
と主張した。

 統治行為論は、
「違憲審査制が定着するまでの過渡期の理論」だったと指摘。

理論としては死んではいないけれども機能はしないということが、
裁判を通じて明らかになったという。

 東京地裁は、
統治行為には言及しなかった。

那覇地裁は、
統治行為論が適用された憲法7条を根拠にした衆院解散と、
臨時国会の召集のケースは異なると判断。

「司法審査の対象から外すことが相当とは言えない」
として統治行為論を採用しなかった。

最高裁の多数意見も統治行為には触れていない。

 司法が行政へのチェック機能を果たすことが、
より期待される時代になっている。

 今回の裁判で国会議員個人の権利侵害を認めず、
憲法判断が回避されたことについて、
新たな立法措置も検討すべきだと言う。

臨時国会の不召集を内閣と議会の紛争として裁判所が解決で切り仕組みを作ることで、
「憲法判断をしやすくなり、
統治行為論を持ち出せなくなる」と語った。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

憲法53条と裁判所について、
紹介した記事のため。


(3)自分はどう思うか?

憲法第53条[臨時会]

内閣、
臨時会の召集。

いづれかの議院
総議員の四分の一以上の要求

安倍晋三一味が森友・加計問題を追及されたくないから、
野党の憲法53条に基づく要求を無視して臨時国会を開かず、
開いたと思ったら冒頭で、
僕難突破解散したことについて書かれた記事である。

最高法規を無視する一味の悪行は、
菅義偉一味にも継承されていたことも紹介されている。

憲法の番人は安倍晋三一味によって骨抜きにされており、
行政府の肥大化は立法府の身ならず、
司法府をも飲み込んでいることを忘れてはいけない。

少数意見で一人気を吐く宇賀克也裁判官は、
判決において事あるごとに目立つ存在になっている。

というか、
この人が裁判所最後の良心ではないか。

去年ようやく安倍晋三一味支配が解けるような記事が、
全国紙に記載された。

これを機に、
元に戻る反動が万事において起きることを願わずにいられない。


(4)今後、どうするか?    

・憲法に関する記事をスクラップする。

・臨時国会召集に関心を持つ。

・国民は国会議員の上にいることを忘れない。


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。
  

長い記事ですが、
忘れてはいけないことと思います。


皆さんも、
日本国憲法を都度読み返しましょう。

憲法尊重擁護義務のある国会議員が無視すること自体、
最高法規違反なのですから。