今回紹介する記事は
2021年11月18日付けの
     
「北海道新聞」の記事です。
      
【他人任せにできぬ安全】


というタイトルで、
作家である藤原智美氏が、
今一度、
個々人の参加意識で、
視界の広い公共性を作り上げる重要性について、
紹介しております。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

 ☆新聞記事の紹介について

(発信者が重視するテーマに関してはこちらをご覧ください)

始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

 ハロウィーンの夜、
京王線の電車に乗り込んだ男が、
刃渡り約30センチの刃物で、

70代男性の胸を刺したあと、
車内に放火した。

負傷者は17人にのぼった。

 犯人は、
今年8月に起きた小田急線社内での死傷事件を模倣したと述べている。

 しかし、
通り魔的な無差別襲撃事件は、
「まねてみたかった」
というような軽い動機で起こすものではない。

明確な殺意をもち、
捕まるのを覚悟で犯行に及んでいる。

犯行後も車内で、
タバコの煙をくゆらす姿が動画撮影されている。

 無差別の襲撃事件は、
今世紀に入ってから増加傾向にあった。

昨年からは、
さらに加速的にふえている印象だ。

今年だけでも、
東京・上野駅構内の死傷事件などを含め、
計4件が発生しているのだ。

 一方で、
凶悪事件全体の数は激減している。

2003年をピークに2020年には、
その約3分の1にあたる4500件ほどに減っているのだ。

このことからしても、
増え続ける無差別種激事件は、
他の殺人・強盗といった凶悪事件とは、
まったく異なる動機によって、
引き起こされている、
といえるだろう。

 犯人たちは、
闘争路を確保するような計画性はなく、
犯行は突発的かつ刹那的だ。

「死刑になりたかった」
という言葉が吐かれることもある。

そこには、
自暴自棄を超えた、
自己の生を閉じようという死への願望すら感じられる。

しかし、
急増する自殺者のように、
みずから死を選ぶことはない。

 なにより、
他者への強い憤りと殺意を優先しているように見える。

標的となるのは、
特定の個人ではない。

たまたま、
そこにいた誰かだ。

こうした不特定の個人を狙う犯行には、
社会そのものへの恨みの感情が見てとれる。

 加えて犯人たちには、
暴走を抑止するための力になる身近な人の姿も、
見えてこない。

このような社会的孤立と冷え切った孤独感が、
犯行の背景にあるとすれば、
やはり私はこの状況に恐怖を覚える。

 なぜなら、
日陰に追いやられ、、
やり場のない怒りをふつふつとたぎらせる者は、
今、
けして少なくないと感じるからだ。

 目を転じれば、
縮こまったこの社会は、
勝ち組と負け組に分断されたまま、
自粛解除で元の形にもどろうともがいている。

今までふたをされていた孤立や孤独感が、
一気に表へ出てくるかもしれないと、
私は危惧する。

 京王線の事件後、
ある知人は帰宅に際して、
有料の座席指定サービスを利用するようになった。

ささやかな防御策だという。

 暴力犯罪といえば、
夜の繁華街や夜道を連想する。

しかし、
今や安全なはずの交通機関も危ない。

 きょうも電車の中では、
みんな一様にスマホの世界に没頭する光景がみられる。

だが、
車内は、
ときに他者への意識、
配慮が必要な公共空間である。

それを忘れると、
杖をついた高齢者や、
お腹の大きな妊婦に席をゆずることもなく、
スマホに視線を奪われることにもなる。

 私たちは、
電車内で他者への意識を頭の片隅に追いやり、
気安くネットの世界に埋没する。

危険やリスクに対する無防備な状態を作ってしまうことにもなりかねない。

今一度、
電車という空間に、
視界の広い公共性を作り上げよう。

公共性とは、
個々人の参加意識で構成される。

 安全を他人任せにしていい時代は、
もはや終わったのかもしれない。



(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

無差別襲撃事件と通勤時に使用する公共交通機関について、
紹介した記事のため。


(3)自分はどう思うか?

凶悪事件全体の数は激減している。

日本人は、
ワイドショーのしたり顔をした講釈師に踊らされている。

ドラゴン桜やエンゼルバンクの著者が、
喝破する漫画を見かけた際に、
目にした光景である。

確かに、
日本人というものは、
夢見がちな幻想にとらわれやすいし、
物事を悪く考えがちなのだろう。

されど、
忘れてはならないことがある。

凶悪殺人の全体数が減っていても、
無差別襲撃事件数は、
目下増えているということだ。

熱いやかんを持つ際に、
取手が熱いかどうか不明な際に、
持ってきてくれと言われたら、
どう対処する?

取り敢えず素手でやってから考えるという楽観主義者は、
重症という痛い目を見ても、
周囲からは正常性バイアスにかかっている?
と思われるかもしれない。

濡れ布巾や防具で最低限の防御をして行動する悲観主義者であれば、
取り越し苦労で終わるかもしれないが、
災難が降りかかっても軽傷で済む可能性が高まる。

備えあれば憂いなし。

高を括って相手を見下すことでしか、
自分を誇示できない残念な生き物が存在する。

人間五十年・還暦・喜寿を迎えた人生の先輩と呼ばれる者たちだ。

社会的孤立や冷え切った孤独感、
日陰に追いやられ、
やり場のない怒りを沸々とたぎらせる者に対して、
一切配慮がないというより、
自己責任で切り捨てることで、
自分の優位性を確保することにのみ、
生きがいを感じることしかできないのだろう。

偉そうに述べているが、
自分は精神衛生が芳しくない時は、
いつ加害者側の凶行に準じるかわからないと思うことがある。

落ち着いている時は落ち着いているのだが、
大概睡眠をきちんととれる休日にこそ、
ヒントがあると思われる。

公共交通機関を利用している手前、
通勤中はスマホを使用している一人として、
他人事には思えない。

公共性とは、
個々人の参加意識で構成される。

安全を他人任せにしていていい時代は、
もはや終わったのかもしれない。

文末に綴られし、
これらの言葉を忘れない。


(4)今後、どうするか?

・藤原智美氏に関する記事をスクラップする。

・凶悪事件の全体数は激減しても、
無差別襲撃事件は増えていることを忘れない。

・ささやかな防御策を自らも講じる。


今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。

藤原智美氏に関する記事は、
以前も紹介しました。

公共性とは、
個々人の参加意識で構成される。

この言葉が、
今の日本に欠乏していると思えてなりません。


皆さんも、
ささやかな防御策を講じましょう。

犯行は突発的かつ刹那的、
「死刑になりたかった」
標的はたまたまそこにいた…。

日陰に追いやられ、
やり場のない怒りを沸々とたぎらせる者は、
貴方も私も該当するかもしれないのですから。

自分も他人も守るため、
人事を尽くしましょう。