今回紹介する記事は
2021年5月14日付けの
 
「朝日新聞」の記事です。
  
【ジャーナリズムの不作為 五輪開催の是非 社説は立場示せ】

 



というタイトルで、
慶応義塾対学教授山腰修三氏が、
「世論の陣地取り」と位置付けられる社説は、
論理的な主張を毎日展開し続けられる数少ないものであることに関して、
紹介しています。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

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始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

 「ジャーナリズムの不作為」
という言葉がある。

メディアが報じるべき重大な事柄に関して、
報じないことを意味する。

例えば、
高度経済再生長時代に発生した水俣病問題は、
当初ほとんど報じられなかった。

「ジャーナリズムの不作為」
は後に検証され、
批判されることになる。

 ジャーナリズムは出来事を伝えるだけでなく、
主張や批評も担う。

したがって、
主張すべきことを主張しない、
議論するべきことを議論しない場合も、
当然ながら
「ジャーナリズムの不作為」
に該当する。

念頭になるのは言うまでもなく、
東京五輪開催の是非をめぐる議論である。

4月の世論調査では、
延期や中止が7割程度と多数を占めた。

ソーシャルメディアでは怒りや反感が渦巻き、
看護師の派遣に反対するハッシュタグが拡散した。

 この段階に至るまで、
主流メディアは「中止」も含めた惹かれた議論を展開したとは言い難い。

例えば、
5月13日現在、
朝日新聞は社説で、
「開催すべし」
とも
「中止(延期)すべし」
とも明言していない。

組織委森喜朗の女性差別発言以降、
批判のトーンを強めている。

しかし、
政府や主催者の「開催ありき」の姿勢や説明不足への批判であり、
社説から朝日の立場が明確に見えてこない。

まずは自らの立場を示さなければ、
社会的な議論の活性化は促せないだろう。

「中止」を主張する識者の意見や投書、
コラムを載せ、
海外のメディアの反応も伝えている、
という反論もあるかもしれない。

だが、
それでは社説とは何のために存在するのだろうか。

 かつて、
6年近く朝日の論説主幹を担った若宮啓文は、
社説を
「世論の陣地取り」
と位置付けた。

社の考えや価値観の理解・支持を広げていく手段、
というわけである。

こうした点からすると、
五輪をめぐる朝日の社説は、
「陣地取り」
という点で完全に失敗している。

 そもそも主流メディアは、
五輪について矛盾したメッセージを発信してきた。

自粛を呼びかける一方で、
聖火リレーなどを
「皆で盛り上げるべきもの」
として伝えると、
説明責任を果たす必要が出てくる。

何らかの政治的決断が下れる時まで、
明言を先送りすれば、
矛盾は解消されるかもしれない。

しかし、
自らの言論で現状を打開する意志を放棄した
「既成事実への屈伏」
にほかならない。

むしろ、
聖火リレーが強行されてなお何も主張しなかった段階で、
「既成事実への屈伏」
は始まっている。

 大海の延期や中止を求める世論は、
行き場を失っている。

「犠牲者」たる自分達の声がどこにも反映されない、
代弁されないと不満を感じている。

こうした中で、
「ジャーナリズムの不作為」
を続ける主流メディアは、
大会開催の担い手と同じ「向こう側」の陣営、
と見なされてもおかしくない。

メディア不信が高まる要因にすらなりうる。

今日のメディア環境で、
新聞の社説がどれほどの影響を持つかについて、
懐疑的な人は少なくないだろう。

だが、
多岐のテーマにわたって、
論理的な主張を毎日展開し、
続けられるメディアは新聞社説のほかに、
今なお存在しないのも事実である。

取材で引き出した事実や、
その分析に裏打ちされている限りにおいて、
社説は一つの価値ある参照点である。

 ただし、
「世論の陣地取り」
の仕方も、
時代に合わせて変化が求められる。

不確実性の高まる社会では、
自らの主張が「正解」である根拠を見いだすことが難しい。

間違いを指摘されるかもしれないし、
批判されるかもしれない。

 だが、
そうした指摘や批判に耳を傾け、
応答しながら柔軟に修正を積み重ねるような社説でも良いのではないか。

「言いっ放し」ではなく、
耳を傾ける姿勢が、
ソーシャルメディアの時代では共感や理解を得る手段となる。

いわば、
社会との対話によって議論を発展させる、
新しい社説の形である。

 他紙や他のメディアとの協働の上に成り立つ社説の形態も考えられる。

五輪の是非についても、
共同宣言という手段もある。

いずれにせよ、
「ジャーナリズムの不作為」
の事例を付け加えるわけにはいかない。

五輪をめぐる「騒動」は、
「世論の陣地取り」
に向けた新たな戦略における構想の機会である。

 「世論の陣地取り」としての社説という考えは、
若宮啓文『闘う社説』(講談社)で示されている。

同書は、
社説がどのように作られるかを知るうえで参考になる。

論説主幹時代における朝日の社説は、
活発な議論を転嫁し、
時代に合わせた新たな理念を構想しようとする姿勢も明確であった。

そういう意味で、
新聞における社説の「面白さ」が戻ることを望みたい。

 本文中で使った
「既成事実への屈伏」
という言葉は、
政治学者・丸山真男が、
小論「『現実』主義の陥穽」で用いたことで知られる。

事実を追認することが結果として現状を維持する役割を果たし、
新たな状況を切りひらく力を失わせてしまう点を批判した。

この警句は、
メディアだけでなく、
私たち自身に対しても、
向けられていると考える必要がある。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

「ジャーナリズムの不作為」と「既成事実への屈伏」に関して、
紹介した記事のため。


(3)自分はどう思うか?

この記事は、
今から丁度2カ月半前の記事である。

朝日新聞の権力図は詳しく分からないが、
曽我豪のような輩が政治部編集委員として、
どっちもどっち論を日曜日に掲載することを許している時点で、
大きく良くはならないと思う。

(多事総論やフロントランナーなど、
良い記事は稀にあるのだが…。)

それから2か月半後の朝刊1面において、
東京感染爆発とともに、
五輪特集を載せていた

5/14の山腰修三氏のメディア私表を読んでないだろう?
整理部さんよぉ。

もし読んで記載したとしたら、
新聞記者としての矜持は全くもち合わせていないのではないだろうか。

さて、
今回は社説について取り上げている。

五輪オフィシャルパートナーの新聞社は、
この記事の通り、
開幕するまで、
「開催すべし」とも「中止(返上)すべし」とも明言しなかった。

開催したら、
やれ光と影を詳細にお伝えするだの、
やれアスリートたちのみが希望だの、
「既成事実への屈伏」を見事なまでに魅せられている次第である。

「不作為」を続ける主流メディアは、
大会開催の担い手と同じ「向こう側」の陣営と見なされてもおかしくない。

地方紙において、
とある政治学者の記事を見かけた。

序盤は五輪開催の混乱を嘆いていたが、
中盤から、
「開会式前にソフトボールの競技が始まり、
応援してしまった」
という文言が出てきて、
終盤は、
「皆も選手の頑張りを応援してほしい。」
なる文章で締めていた。

切り取って赤線を引いていたが、
最後は丸めて破って捨ててしまった。

この地方紙は、
五輪協賛に名を連ねる北海道新聞である。

政治学者でさえ、
第四の報道機関でさえ、
この有様である。

若宮啓文や丸山真男は、
将来において、
このような状態になることを予測する先見の銘があったのではないか。

東京インパール2020シロアリンピックも折り返しらしい。

名残惜しいよりも、
まだ半分もあるのか、
という心境である。

加えて、
今週は居住地札幌に、
災厄がやってくる。

控えめに言って、
来ないでくれ。

沿道に出るなと言っても表に出て、
狂喜乱舞する道民市民が全国全世界に向けて、
発信される。

見ざる言わざる聞かざるになりたい。


(4)今後、どうするか?    

・山腰修三氏の記事をスクラップする。

・「世論の陣地取り」と「着せ事実への屈伏」を忘れない。

・「ジャーナリストの不作為」を見過ごさない。


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。
  

朝日新聞のメディア私評に関する記事は、
以前紹介しました。

「世論の陣地取り」と「既成事実への屈伏」に関する定義は、
常に意識しておきたいものです。


皆さんも、
新聞社説の「面白さ」復活のために、
投書してみましょう。

作家赤川次郎氏も投書しました。

そのことに関して、
紹介された記事もあるので、
機会があれば紹介します。