今回紹介する記事は
2020年9月1日付けの
 
「朝日新聞」の記事です。
  
【大人の議論 消えた7年8カ月 大衆に寄った 二元論的思考 いま救済されるべきはマジョリティー】

 



というタイトルで、
幕を引くことになった憲政史上最長となった政権が、
7年8カ月にわたり、
永遠かとさえ思わせた安倍時代の底流にあったものとは何だったのかについて、
紹介しております。

(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

 ☆新聞記事の紹介について

(発信者が重視するテーマに関してはこちらをご覧ください)

始めに読んでほしいブログについて


(1)内容の要約

安倍政策の政策や姿勢の評価は、
様々であろう。

本格的な言論活動を同時期に始めた自身にとっての関心は、
非常に大衆的な政権であったことである。

大衆感情に即した制作を次々と打ち出し、
大衆に近づいているというアピールに熱心だった。

政治家の威厳と品格はずいぶん薄れた。
官僚の不祥事対応も、
稚拙な印象を受ける。

ハレとケの対称性があって、
魅力も緊張感もある世界の対極。

価値が混沌とした、
時代の象徴に思えた。

そうした政権の文化的気質は、
言論や知の世界でも色濃く反映され、
様々な形で大衆化が進んだ。

この数年で、
完全に大衆向けの文化が主導になった。

民主化の一つの実現とはいえるだろう。

多くの市井の人々による目線が何より重視されるようになったのだから。

ただ、
残念な風潮も目につくようになった。

物事をひどく単純化してしまう。

良い悪い、
勝った負けた、
正しい間違っている、
敵か味方かー。

二元論に落とし込む思考法が、
あふれるようになった。

言葉の使い方もレッテル貼りがしばしばで、
雑である。

対決姿勢は強くても、
思索の跡が見られない例も増えた。

一方で、
素朴な道徳観に発し、
世直しの使命感や良識が前面に出た、
ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)を追求する機運も気になった。

1990年代ごろなら、
ぎりぎりまで表現の自由を守ろうとしていたが、
逆戻りし、
PTA的な価値観が数の力でまかり通ってしまう。

知識人やメディアが、
多数派に忖度しているように思えてならない。

効果的なメッセージを放つには、
戦略的に、
主張を単純化させたり強めたり、
目標を明確にして大東団結することが大事だ、
という意見もあるかもしれない。

しかし、
人間は複雑であり、
様々なひだがあるものである。

理念だけでは生きられない。

傷つけあい、
嫌な感情ものみこみながら、
愛憎をもって生きていく。

そうした両義性から目をそらさず、
こくのある、
成熟した議論を積み重ねたいと思う。

そう、
この「大人の議論」こそ、
安倍政権の時代に姿を消したものにほかならないのだから。

近視眼的な戦略でなく、
「じわじわときかせる言葉と思考」
がもとめられているはずである。

国立大学の文系学部の廃止・転換を文部科学省が通知したように、
人文知の軽視が強まった時代だったことも、
記憶にとどめておきたい。

高校の「論理国語」導入も同様である。

人の魂というあり方を考える教育が、
今とても大切なのに、
逆行した動きである。

背景には、
数値重視や効率化、
成果主義がある。

根っこはグローバル資本主義の問題である。

どうすればいいのか。

一人ひとりが、
その難題に対抗する手段として、
「勉強」を勧めてきた。

学校のように自分を固定するものではない。

今あるシステムから逃れる糸口をつかむために、
学ぶ。

幸い普通の人々が、
専門知にアクセスしやすくなった状況を活用してもらいたいと期待している。

最後に、
今救済されるべきはマジョリティーではないだろうか。

多数派って本人が自覚していないだけで、
とらわれが多い。

狭い思考の枠組みから抜け出せない。

言論や知の世界に携わる者が人々と向き合い、
思いを受け止めた上で一歩踏み出すことを促す。

「種をまく」ことが希望になると信じている。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

7年8カ月の間に消えたものについて、
紹介された記事のため。


(3)自分はどう思うか?

7年8カ月、
永遠かとさえ思うほど長かった。

「桜を見る会」で芸能人たちと記念写真撮影に納まる首班を見るたびに、
政治家の威厳と品格が薄れていく、
というより壊されていく様を国民の大半は、
本当に何とも思わなかったのだろうか。

官僚の不祥事に対する対応は、
野党合同ヒアリングのツイキャスを視聴すれば一目瞭然なのだが、
児戯に等しい。

否、
子どもたちにさえ失礼極まりないほど、
吐き気を催す言い訳ばかりである。

難関の国会公務員Ⅰ種試験を突破したキャリア官僚の行き着く先は、
言い訳だけなら天下一品なのだろうかと思う程だ。

7年8カ月において、
自身染まってしまった悪癖の一つが、
物事をひどく単純化してしまうことである。

元々白黒つけたがる性格は強いのだが、
二元論に落とし込むことに加え、
単純化や明確化を追い求めるきらいが、
より強くなったことは否めない。

「今だけ・金だけ・自分だけ」
ではなく、
「じわじわときかせる言葉と思考」
を取り戻す必要があるのであろう。

難題に対抗する一つとして、
今あるシステムから逃れる糸口をつかむために、
学ぶ「勉強」。

喜寿目前だから、
還暦を過ぎたから、
昭和の人間だから、
を理由に、
学びや勉強を放棄することに、
全くもって共感を持てない。

狭い思考の枠組から抜け出すためには、
言論や知の世界に携わる人々の集会に参加することが、
求められるのではないだろうか。


(4)今後、どうするか?    

単純な二元論に陥らないようにする。

「じわじわときかせる言葉と思考」という、
「大人の議論」を調べる。

今あるシステムから逃れる糸口をつかむために、
学び「勉強」を続ける。


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。
      
永遠かとさえ思わせた「時代」も、
サドンデスの如く、
突然終わりました。

理念だけでは生きられず、
傷つけ合い、
嫌な感情ものみこみながら、
愛憎をもって生きていくことは、
苦痛極まりないものの、
必要と思われます。


皆さんも、
専門知にアクセスしやすくなった状況を活用し、
今あるシステムからの下れる糸口をつかむために、
勉強(学び)ましょう。