今回紹介する記事は
2020年1月17日付けの
     
「北海道新聞」の記事です。
      
【映画の周辺 息苦しさの敵は 3監督に聞く】

 


    
というタイトルで、
映画をめぐって、
助成金の交付を取り消し、
一時上映中止が決まったことが昨年相次いだことに関して、
表現の自由を狭める敵として、
圧力・忖度・自主規制があることを3人の映画監督が、
紹介しております。

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ています。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

新聞記事の紹介について


(1)内容の要約

●森達也監督

助成金の不交付も上映見合わせも、
圧力だとは思っていない。

どちらも短絡的で薄っぺらい規制、
もしくは自主規制。

根底にあるのが、
「万が一のことがあったら」
というセキュリティー意識だ。

万が一は当然ある。

ゼロにするために上映しない、
という安易な発想がまかり通っている。

新聞記者の取材現場を追った
映画「i-新聞記者ドキュメント」
が東京国際映画祭で上映された後、
中国のメディアから取材を受けた。

質問の最後に記者が言った。

「今の日本には、
社会を支配している空気がある。

日本人は支配されていることに気づいていない」
と。

返す言葉が無かった。

今起きているのは自由からの逃走。

日本ではパブリック(公共)の概念が根付かないまま、
パブリックよりネーション(国家)という考え方が強まっている。

本来、
公益の概念を支えているのは国民主権。

でもそこが抜け落ちているから、
ただの自発的隷従になる。

多様なものの見方は学べる。

個人が違う視点から見て聞いて読めば、
まずメディアや表現が変わる。

社会全体も風通しが良く、
呼吸しやすいものになるはずだ。

●白石和彌監督

映画「主戦場」
の一次上映中止には反対の声を上げたし、
重要なことだったけど、
今考えれば同作を上映作品に選んだこと自体が、
映画祭としては結構「攻めて」いたのだなと思う。

問題になりそうな作品は最初からラインナップに入れない傾向は、
ますます強くなるはずである。

そもそも税金は国や市のものではない。

市民から集めた税金なのだから、
多様な意見に応える形で使うべきだ。

映画「宮本から君へ」
の助成金不交付は、
後出しじゃんけん。

魁夷先生交流サイト(SNS)の発達で、
市民も監視し合うようになった。

そしてみんながSNS上における謎の連帯を恐れている。

憲法第12条に、
国民の自由と権利は
「国民の不断の努力によって」
守らなければならないと書かれている。

民主主義であっても、
権力から権利を自分たちで守らないといけない。

国民の自由と権利がない社会は、
人としての優しさがない社会だと思う。

来るべき時にきちんと戦えるよう、
少しでも自由の“隙間”を広げておきたい。

●深田晃司監督

一つ一つの出来事は直接的には関係ないだろうが、
根っこでは繋がっていると感じる。

映画「宮本から君へ」
の件では、
助成金不交付の理由を芸文振は、
独立機関であるはずなのに、
国の立場をおもんばかった。

映画「主戦場」
の上映中止も、
主催者に、
「川崎市のご機嫌を損ねたくない」
という思いがあったのではないか。

どちらもいわゆる忖度であり、
分かりやすい検閲溶離もむしろ厄介である。

文化人が検閲を内面化してしまっている、
ということだからだ。

なぜ文化は多様であるべきなのか。

一言でいうと、
健全な民主主義のため。

多様な意見をくみ取りながら意思決定をしていくのが本来の民主主義だからである。

そのためには、
いろいろな意見や立場が社会に目に見える形で存在している必要がある。

多様性が失われた社会では、
多数派にとって気持ちのいい描き方になり、
民主主義にとってはマイナスになる。

一方、
文化芸術には他社に対する想像力を養う力がある。

少数派の意見が反映されない社会は一色に染まりやすく、
為政者にとって都合がいい。

重要なのはおかしいと思ったら声を上げること。

批判や意見を記録として、
社会に残していけなければならないと強く思う。


(2)なぜこの記事を切り抜いたか    

表現の自由を狭める空気に対して、
対抗策を紹介した記事のため。


(3)自分はどう思うか?
 
森達也氏のことが話す「万が一」のセキュリティー意識は、
自分は強く持っている。

過剰すぎる位に恐れて、
大事なことを蔑ろにする兆候がある。

「今の日本人は社会を覆う空気に支配されていることに気づいていない」


中国人記者に看破されたこの一言こそ、
全てを物語っているのではないか。

白石監督が語るSNS上で謎の連帯に対し、
皆が恐れているという話を聞き、
戦時下の「隣組「」を思い出した。

相互監視し、
目立つ行動をするものは密告され、
お上が取り締まることで、

自主規制が完成する。

国民の自由と権利がない社会は、
人としての優しさがない社会。

悲惨な歴史は繰り返すのだろうか。

深田晃司監督は、
なぜ文化が多様であるべきかは、
分かりやすい定義づけである。

多様な意見を汲み取らない状態は脆弱なのである。

世界大会におけるスポーツ競技における自国のありようが、
顕著であろう。

プランAが駄目だった時の場合に、
プランBやプランCを用意しておくことが世界の基準だとする。

日本はプランAが失敗することを考えること自体、
悪しき事、
心が弱い、
だから負けるのだ、
と根拠の乏しき精神論が罷り通る。

そして成功すると、
ほら言った通りだろ、
信ずる者に神風が吹いた、
とバカ騒ぎする。

失敗すると検証もせずに、
次の新しい神輿を担ぎ出し、
失敗を闇に葬ることで、
都合よく忘れる。

これは21世紀に入ってからの傾向というより、
戦前からの遺伝なのかもしれない。

多数派にとって心地良かろうが、
少数派の意見が尊重されない社会は、
思いの外脆弱なのである。

三者の意見を鑑み、
多様なものの見方、
憲法第12条の擁護、
批判や意見を記録として残すことについて、
考えたい。


(4)今後、どうするか?

「万が一」セキュリティの行き過ぎに注意する。

税金は国や市のものではないことを認識する。

声を上げることに加え、
批判や意見を記録に残していく。



…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。

森達也監督に関する記事
については、
以前紹介しました。

問題になりそうなものを予めはじく傾向は、
間違いなく強まるでしょう。

何故なら自分自身が、
「万が一」セキュリティ―意識に傾倒しているためです。

反面、
多数派に与することは面白くないので、
記録する行為は続けているので、
自分なりに抵抗の意思表示を続けるつもりです。


皆さんも、
自主規制という安易な発想に逃げるだけでなく、
ささやかな抵抗と称して、
抗う術を自分なりに見つけて下さい。

権利は与えられるものではなく、
自ら勝ち取ることを心の片隅においていただきたいです。