今回紹介する記事は
2019年12月6日付けの
  
「北海道新聞」の記事です。
   
【選手無視 加速する商業五輪 長距離ランナーの怒り】

 

というタイトルで、
文芸評論家川村湊氏が、
英国の作家アラン・シリトーの小説『長距離ランナーの孤独』と、
1964東京五輪の犠牲者となった円谷幸吉選手の孤独と怒りを思い出し、
IOC及びJOCの利己的な思惑及び、
北海道及び札幌市の開催地返上案について、
紹介しております。

 

いつもどおり、
「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。
 
(4つの視点についてはこちらをご覧ください)

 

新聞記事の紹介について

 

 

(1)内容の要約

 

札幌に東京オリンピックのマラソン・競歩の協議を持ってくるというドタバタ劇を見て、
私が思い起こしたのは、
英国の作家アラン・シリトー著

『長距離ランナーの孤独』

(トニー・リチャードソン監督によって映画化もされた。)

である。

 

コソ泥のスミスは、
感化院で長距離走の素質を見込まれ、
トレーニングを積み、
競技大会に出場することになる。

 

彼は大会で先頭となり、
後続を引き離し、
ゴールラインに到達する。

 

だが、
その直前で彼は立ち止まり、
後続の選手が追い越してゆくのを黙然とやり過ごす。

 

スポーツ競技で成績を上げさせ、
不良少年更生の実績として、
自分たちの手柄にしようという院長をはじめとした、
周囲の大人たちの思惑を彼は裏切った。

 

英国の怒れる若者たち世代、
犯行の文学である。

 

アスリート・ファーストと言いながら、
自分たちの立場や地位の保全のために汲々とし、
開催地に無理難題を押し付けるIOC(国際オリンピック委員会)。


やはり保身や利己主義から、
まともな反論もせず、
追従する東京オリンピックの組織委員会と会長。


棚からボタ餅と欣喜しながらも、
過大な不安に困惑する札幌市役所と北海道庁。

 

実際に競歩に参加する選手たちの意向や考えなどを一顧だにせず、
関係者たちの利己的な思惑や、
社会の経済的利益に翻弄される選手無視という状況をどうして、
アスリート・ファーストといえるのだろうか。

 

そもそも、
猛暑日にオリンピック開催時期をIOCが持ってきたのは、
米国のテレビ放送局の都合であったのは周知のことだ。

 

JOC会長の買収疑惑など、
様々なトラブルやスキャンダル、
開催予算の野放図な膨張をものともせず、
猪突猛進するオリンピック業界の業界人(商売人)たち。

 

復興という建前などそっちのけで、
経済的利益のみを宣伝するマスコミやメディア。

 

アスリートたちの怒りや孤独感には無関心、
無理解のままスポーツの祭典は強行されようとしている。

 

正当な反対論や、
スミスのような反抗者が出てこないことは、
むしろこの社会の病理だ。

 

「いったん決まったら、
四の五を言わずに一致団結して協力する」
のが日本人の美徳と言われることがあるが、
これはむしろ悪徳だ。

 

これまでの多くの混乱や失策者失敗の責任を問わずに、
長いものに巻かれる、
泣く子と地頭に勝てず、
とばかりに異見や批評や批判を封殺するための非民主的な方策以外のものではないからだ。

 

東京都民の恨みを買い、
スポーツ貴族たちの牛耳るIOCの横暴や横車にまともな意見を言えず、
無力で無責任な組織委員会(金だけは大判振る舞いする)の尻拭いをされるいわれは、
札幌市民には全くない。

 

札幌市長や北海道知事や、
五輪担当大臣の点数稼ぎのために、
費用を市民税及び道民税から支出することは、
市民かつ道民として私は反対する。

 

五輪商業化を悔い改めるきっかけとすべき招致が、
一段と商業化を加速させたことは間違いない。

 

札幌は今回のマラソン・競歩の協議開催を返上してはどうか。

 

ついでに札幌冬季オリンピックも断念しよう。

 

別に望んでもいなかったものを押し付けられ、
市民の意見も聞かないままに、
政治家同士が決定したことを唯々諾々と受け入れる必要性は、
全くないのだ。

 

せめて市民投票で開催の賛否を一度は問うべきだ。

 

時間がなければ、
止めればいいのだ。

 

長距離ランナーの孤独と言えば、
「幸吉は疲れました。

もう走れません。」
という遺書を残して自殺した、
前回の東京オリンピック銅メダリスト円谷幸吉選手のことを思い出さざるを得ない。

 

国威発揚の犠牲者となった円谷選手の孤独と怒りを私たちは、
いつの間にか忘れてしまったのだ。

 

国威発揚どころか、
国家と都市の為政者のための政治的な威厳の発揚と、
経済的な利益優先のオリンピックは、
スポーツマンシップやアスリート精神を無視し、
黙殺する傾向は強まっているのではないか。

 

それに与するマラソン・競歩の札幌開催に、
私は反対する。

 

ゴール直前で立ち止まった調理創始やスミスの勇気に、
私は拍手を送りたい。

 


(2)なぜこの記事を切り抜いたか 

 

五輪開催に対して、
ここまで堂々と反対意見を文芸評論家が主張した記事のため

 


(3)自分はどう思うか?
 
以前、

アフター1964東京オリンピック

に関する記事を紹介した。

復興五輪疑問」

という記事も紹介した。

 

先日、

銅メダル死 事実 円谷幸吉 命の手紙」

に関する記事を紹介した。

 

幸か不幸か、
今年の五輪開催は延期された。

間違ってもリセットはされていない、
ということを努々忘れないでいただきたい。

JOC

は、
コロナウイルスが収まりだしたら、
日本復活のための国威掲揚などと唱えて、
是が非でも強行開催すると言い出すだろう。

 

そして、
スポンサーの一役を担う大手マスコミテレビ局や、
全国及び地方の新聞メディアが、
節操なく持ち上げ、
大衆扇動するのであろう。

 

「いったん決まったら、
四の五を言わずに一致団結して協力する」

長いものに巻かれる、
泣く子と地頭に勝てず。

 

皆、
日常生活でこれでもかというほど、
不条理を味わっているであろう。

 

もうそろそろ、
そのような黒い歴史にピリオドを打たないか。

 

アスリートたちの怒りや孤独感には無関心・無理解のまま強行、
スポーツマンシップやアスリート精神を無視。

 

育成年代のスポーツ競技において、
プレイヤーズ・ファーストを謳いながら、
オーバーコーチング、
暴言・罵声を浴びせて、
子どもたち自らが、
認知・判断・決断する機会を奪う。

 

強豪と言われるチームの指導者及び保護者は、
自らの愚行を省みることはこの先あるのだろうか。

(いやない、
自らに多大なる被害を被らないと決して悔い改めないであろう。)

 

札幌市長や北海道知事、
五輪担当大臣の点数稼ぎのために、
費用を市民税及び道民税から支出することは、
市民かつ道民として文芸評論家川村湊氏は反対する。

 

同意見である。

 

何で彼奴等の点数稼ぎに、
税金を高額支払わねばならぬ。

 

スポーツマンシップに相反し、
アスリート精神を踏みにじってまで、
東京や札幌に五輪はいらないと、
ここまで大々的に明言した、
記事を大いに支持したい。

 


(4)今後、どうするか?

 

アラン・シリト『長距離ランナ孤独

を読む。

 

日本の美徳と尊ぶものが、
実は悪徳ではないか検証する。

 

円谷幸吉に関する資料を探す。

 


…今回も自分の勉強がてら、
まとめてみました。


この記事が出たのは、
去年12月下旬であります。

 

五輪開催が今年はなくなり、
コロナウイルス蔓延により、
皮肉にも日本における不条理が表に出てきております。

 

不幸中の幸いは、
私利私欲のために猪突猛進する業界人(こと政治屋達)の強行に対し、
国民市民から正当な反対論が出て、
断念する事態にもっていった事例が、
一つ生まれたことでしょうか。

 

(間違って廃案五輪同様「延期め、

 終わってはいないのです)

それでもおかしいと思う人(サイレントマジョリティー)は、

想像以上に多数いることが証明され、

世の中を動かしました。

 

スミスのような反抗者が出てきた際に、

支持者がどんどん出てくる社会こそ、
健全と思われます。


皆さんも、
常識や慣例と言われるものに、
疑いの目を向けてみて下さい。

 

しきたりや習わしといった、

因習陋習なるものが、
改変されねばならないと実感することが、
多々あると思います。

 

歴史をつなぐのか、
ピリオド打つのかは、
決めるのは誰でもなく自分自身です。