ドスン、と尻餅をついた。派手にこけたはずなのに、まったく痛くない。
それよりも、思わず手で掴んだ雪の柔らかさと、きめの細かさに驚いた。
九州でたまに降る雪は湿って重いのに、信州・白樺の雪はさらっとしていて、まるでお砂糖みたいだ。
「由香子、大丈夫?」
笑いをこらえきれない理恵が、スキーで近づいてきて手を差し出す。
「おーい、どうした?」
遠くから村田まで巧みに滑ってきた。
あの二人は本当にスポーツ万能で、昨日今日覚えたばかりとは思えない。インストラクターも舌を巻くほどの上達ぶりだ。
私はというと、特に苦手でも得意でもないスポーツだけど、やっと1日目に真っすぐ滑れるようになった程度。
さっきは、旗がはためく地点で止まる練習をしていたのに、止まれずにずんずん滑り落ちていき……。
周囲の生徒たちは「うまい、うまい!」なんて言っていたけれど、ちょっと待ってよ。分かってるくせに。
止まりたくても止まらないの。
こうなったら最後の手段、座っちゃえ!と思った瞬間、予想より早くお尻が落ちた、というわけだ。
振り返ると、かなりの距離を滑ってきたみたい。
あの地点まで板で歩いて戻るのかと思うと、もう宿舎へ帰って寝たい気分だった。
そんなとき、理恵が、続いて村田が、華麗に滑ってきてくれたのだ。
「うん、大丈夫、大丈夫。それよりさ、見てよ、この細かい粒子の雪!」
私は掴んだ雪を二人に差し出す。
「ほんとだわ。一度もこけてないから気づかなかったけど、さらさらしてて、お砂糖みたいなんだね」
理恵の一言は余計なようで、でも嫌味に聞こえない。
背後で村田が珍しく、にたっと笑った。
二人に手を引かれて立ち上がる。
スキーウェアについた雪を払うと、さらっと落ちていった。
べちゃっと濡れる感じがまったくない。粒子が滑り落ちていくようだ。
まさにスノーパウダー。
これなら何度尻餅をついたって大丈夫……いや、そうじゃないでしょ!と心の中で自分に突っ込む。
だけど、本当に思った。
この雪と出会えただけでも、この修学旅行には夢がある。うん。
「この斜面をスキー板つけて登るのは、さすがにしんどいな」
「もう少し滑ればリフトがあるよ。その方が楽しくない?」
「そうだな」
理恵と村田は互いにうなずき合うと、そろって私の方へ振り返った。
あ……わたし、ね。
宿舎へ戻るなんて言えるはずもないし、勝手な行動は厳禁。
ここは、うまく言わないと。
「二人、先に行って。私はゆっくり滑っていくわ。復習も兼ねて」
ほんとにそれでいいの、と理恵が眉を寄せ、
一人の方が真剣に滑るだろ、と村田も同意する。
どうか私に遠慮せず、二人っきりでリフト乗り場までスキーデートしてきて頂戴!
……とは声に出さなかったけれど、むひひっと笑ってみせた。
「なによ、その変顔!」と理恵が吹き出し、
村田は背中越しに肩を揺らして笑った。
「ほんとにいいんだね。じゃ、先に行くよ」
「うん」
二人は軽やかに斜面を滑り出していく。
雪の上を風が走るみたいに、迷いのない軌道で。
私はその背中を見送りながら、ふうっと息をついた。
悔しいけれど、ちょっとだけ羨ましい。
私だって頑張ってるのに、止まれないし、こけるし、もう……なんなのよ。
でも、そんな自分を笑えるくらいには、この雪が気持ちよかった。
さっき掴んだスノーパウダーの感触が、まだ手のひらに残っている。
ふと、背中に視線を感じた。
振り返ると、少し離れた場所に、同じ班の男子が立っていた。
リフトへ向かうでもなく、滑り出すでもなく、ただこちらを見ている。
何か言いたげで、でも言えないような、そんな気配。
冷たい空気の中で、彼の吐く白い息だけが、やけに熱を帯びて見えた。
私は軽く会釈して、前を向く。
理恵と村田の笑い声が、斜面の下から弾んで聞こえてくる。
その音に引っ張られるように、私はスキー板を揃えて、そろそろと滑り出した。
止まれるかどうかは……まあ、運次第。
でも、胸の奥がほんのり温かい。
雪のせいじゃない気がした。
自由行動の日の朝。
起きた瞬間、太ももとふくらはぎが悲鳴を上げた。
「いったぁ……」
昨日の転倒と、止まれないまま滑り続けたあの距離。
そりゃ筋肉痛にもなるよね、と苦笑しながらジャージに着替えた。
健康チェックの列に並んでいると、前の方で先生の声が少し慌ただしくなった。
「え、38度? スキーは無理だ。今日は臨時の静養室で休んでいなさい」
誰だろうと思って覗くと、同じ班の男子だった。
いつも控えめで、あまり目立たない子。
昨日も、遠くからこっちを見ていた気がするけど……気のせいかな。
先生が付き添いを探しているのが分かった。
――あ、これチャンスかも。
理恵と村田を二人きりにしてあげたい。
昨日のあの滑りっぷり、もう完全に“いい感じ”だったし。
それに、正直、私は筋肉痛でスキーどころじゃない。
「先生、私、残ります。保健委員ですし」
そう言うと、先生は安心したようにうなずいた。
無言だと普段は気まずいが、相手は高熱だ。
おしゃべりどころじゃないだろうと、黙ったまま静養室までゆっくり歩く。
「わたし、事情を同じ班の子たちに伝えてくるから。」
とだけ言い、いったん、離れた。
理恵たちは残念がったが、「私の分まで楽しんで。あとで話を聞くから」
と、手を振って別れた。
静養室へ戻ると、男子が布団に横になっていた。
眠っているのだろうか。そっと枕もとを覗き込むと、顔が赤い。
熱のせいだろうけど、なんだか妙に恥ずかしそうにも見えた。
ううぅと、小さく唸る。起きてるみたいだ。
「大丈夫? 熱、つらいよね」
そう声をかけると、彼は小さくうなずいた。
その仕草が、なんだか子犬みたいで可愛かった。
氷枕を替えてあげるとき、彼の額に触れた指先に、じんわり熱が伝わってきた。
「わ、ほんとに熱い……」
思わずつぶやくと、彼は目を閉じたまま少しだけ息を吸った。
苦しいのかな、と思っておでこに乗せたタオルを裏返す。
窓の外では、雪が静かに降っている。
スキー場へ向かう生徒たちの声が遠くで弾んでいた。
「今日はゆっくり休もうね。無理しないで」
そう言うと、彼はまた小さくうなずいた。
「ごめん…」
「え?」
聴き取れないくらい、小さな声だ。病人らしい。だけどそれだけじゃない。
「きょうはごめん。僕のせいで…その…スキー行けなくなって」
……なんだろう。
同じクラスなのに。しかも、同じ班なのに。初めて発したような彼の言葉に、思わず感情が揺らいだ。
「ううん、そんなことないよ。私も筋肉痛だしね。休養できて喜んでるくらい。
私が付きそうから、安心して休んでいいよ」
私は保健委員だし。
それに、今日は理恵と村田のための日。
二人が自由行動を楽しんでくれたら、それでいい。
私は椅子に腰かけ、静かに深呼吸した。
筋肉痛でスキーはほんと無理。
でも、こうして誰かの役に立てるなら、それも悪くない。
彼の寝息が、少しずつ落ち着いていく。
雪の降る音が聞こえそうなほど静かな部屋で、私はそっと窓の外を眺めた。
またいつの日か、あのパウダースノウに触れたい。
その時は今よりずっとずっと上手くなるんだ、心の何処かで静かに誓った。
修学旅行から戻り一週間が瞬く間に過ぎた。
少しずつ日常に戻りつつある中、来年もスキーへ行こうよ!と計画を立てる子もいれば、もういいやって子など様々だ。
私も最初は、センスないよなぁ、尻餅ばかりでって思ったが、最終日、発熱した男子… 英二くんと二人で静かに過ごしたことで、気持ちに変化が現れた。
「いつか、リベンジしよう。流石に一緒に…とはいかないけど。必ずスキー上手くなろう!」
と、二人で誓ったのだ。
このことは理恵にも村田にも話さなかった。
英二くんと自分だけの ちょっとしたひ・み・つ、ってやつ。
クラス中がスキーの話題で盛り上がる中、どっちともつかず、クラスの中で英二くんと視線が合った。
あの後も、特に、二人で話すわけでもなかったけれど。
二人にしか分からない暗号みたいなものだろうか。
上手く言えないけど。
「修学旅行の写真が焼きあがってきたぞ! 必要な写真の番号を記入し、料金を添えて提出すること。今朝の連絡は以上だ」
担任の声を合図に、学級委員が号令をかける。
「起立。礼!」
「ありがとうございました!」
「着席!」
朝礼を終えた担任が教室の外へ出るやいなや、皆がわっと、写真が貼りだされたボードへ群がった。
インストラクターと一緒にピースをするクラスメイトや、各部屋での集合写真などを順に眺めていく。
…とその時。男子の甲高い声が響いた。
「おい!これ、見ろよ!女子の部屋に一人だけ、男子がまざっとる!誰や!女子部屋に侵入した奴は?」
「え?何なに?」
「そんな…美味しいことした奴おるんか?」
「やるなぁ…」
男子が盛り上がり、冷やかす中、我ら女子は、首を傾げる。
「そんなことあった?」
「ないない!」
理恵が男子たちに一体、どの写真なんだ?と問うた。
「これだよ、これ!」
男子が指さす方向へ、クラス全員の視線が吸い寄せられた。
次の瞬間――
「えーーーっ!」
真っ先に悲鳴に似た声を上げたのは、理恵だった。
そこには… 今流行りの聖子ちゃんカットの女子生徒たちに混ざって、
あ、ちなみに私は静養室にいて、映ってないけど…ストレートのロングヘアだけど… 汗
その…一人だけショートカットでボーイッシュな理恵が、満面の笑みで写っていたのだった。
三学期の終わり、衝撃的なニュースが告げられた。
しかも、本人の口からではなく、担任からだった。
「山口英二がお父さんの転勤で、福島の高校へ転校することになった」
あまりに唐突な話に、自分では気づかないうちに、頬を涙が伝った。
斜め前の席で振り返った理恵が、ぎょっとした顔で私を見たことで、
初めて自分が泣いていることに気づいた。
朝礼が終わると、待ちきれないという風に理恵がやってきた。
「ちょ、ちょっと、あんたたち、いつの間に、そういう仲になってたのよ?」
私は英二くんと視線を合わせられずにいた。
どうして話してくれなかったのだろう。
「そんな仲って、何よ。なんでもないよ。何でも……ない……」
事実、私は一言も聞いていなかった。
何も知らされていなかった。
いつのまにか、村田も私の席の前に陣取っていた。
「なんでもない人が転校するって聞いて、こんなにぽろぽろ涙を流すものかな」
理恵の言葉は、ごもっともだった。
自分でも分からない。
ダムが決壊したかのように、意思なんて完全無視で、涙があふれだしたのだから。
「それで…由香子、あの…ファーストキスとか? もしかして……」
「へ? 何でもないって言ってるじゃん! だけど……英二くんのおでこには触れたことある」
「お? おでこ? おでこって言った? ってことは、お、おでこに…き、きっすな訳よね?」
変顔レパートリーを目の前で繰り広げた理恵は、
最後には野獣の遠吠えか⁉と思うような理解不能な声を出した。
「あ、でもさ。私も村田の肩とかに触れたことある!」
蒸気したまま理恵が言うと、村田がすかさず叫んだ。
「あれは、触れるって表現間違ってるぞ! ありゃ、暴力だろーが!
俺ら男子は喧嘩するとき、手加減するけど、お前は思いっきり肩とか背中とかバーン!と叩きやがる。骨にヒビが入るんだよ!」
理恵と村田が痴話げんかをする中、私の視線が泳ぐ。
英二くんと目が合う。
すっと彼が近づいてきた。
「ごめん。何度も言おう、今日こそは話そうって。でも言えなかった。
手紙、書くよ。福島から」
「うん、待ってる。私も必ず返事を書くから」
何だ、なんだ? 遠距離恋愛ってヤツか?
周囲が騒がしくなる中、
私たち二人の間に流れる空気だけは、
あの日、二人で窓から眺めたパウダースノウのように、
細やかで、優しくて、そして静かだった。
「英二くん、福島って大雪降るよね?」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口からこぼれた。
涙で濡れた頬を、まだ袖で拭いきれていないまま。
「あぁ、降ると思う。少なくとも九州よりは」
英二くんは、少し照れたように笑った。
「だったら! できるよね、スキーも!」
勢いで言った言葉に、英二くんは一瞬きょとんとして、それからゆっくりとうなずいた。
「そうだね」
その“そうだね”が、
まるで未来の約束みたいに聞こえた。
「大人になったらさ、わたし、行くかもしれない。福島のスキー場へ」
言った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
英二くんは、少し驚いたように目を見開いて、それから、静かに、でも確かに微笑んだ。
「…待ってるよ」
その声は、雪の上に落ちる粉雪みたいに柔らかくて、
でも、心の奥にしっかりと積もった。
教室のざわめきが遠くなる。
理恵と村田の声も、廊下の足音も、全部。
二人の間だけに、あの日のパウダースノウと同じ、静かで優しい空気が流れていた。
私は思った。
――また滑りたい。
――そしていつか、英二くんのいる福島で。
新たなパウダースノウを夢見て、私はそっと息を吸い込んだ。

