あの日以来、カフェテリアのBGMは、紅鳴――高野麻里佳の耳に、どこか響かない音楽のように聞こえていた。グラスを拭く手元は普段通りに動いている。笑顔も、完璧に作れているはずだ。けれど、第10話で味わった、あの虚無のメロディに「声」を吸収されていく感覚は、まるで胸の奥に薄氷が張ったかのように、彼女の情熱を冷やし続けていた。
「高野さん、今日のスペシャルデザート、すっごく美味しいね!」
客の弾んだ声も、以前のように心に響かない。自分の歌声が、人々を笑顔にする「声」が、本当にあの強大な虚無に打ち勝てるのだろうか。そんな漠然とした不安が、紅鳴の心に影を落としていた。
中央図書館の窓際。蒼響――高木友梨佳は、古文書から視線を上げ、遠くの空を眺めていた。彼女の表情は常に冷静だが、その瞳の奥には、第10話での戦いの残滓がまだくすぶっていた。虚無のメロディ。それは、彼女の知性をもってしても完全に解析できない、未知の脅威。どんなにデータを集め、分析しても、その本質を掴むことができないという事実は、蒼響の心に微かな苛立ちと、かつてないほどの無力感を刻みつけていた。
「……我々の『声』の根源が、あの虚無によって蝕まれる。このままでは、未来は……」
蒼響の唇から漏れる声は、図書館の静寂の中に、どこか重く沈み込んでいった。
放課後、人通りの少ない公園のベンチ。
二人は、それぞれの胸に抱える重荷を、言葉にすることなく分かち合っていた。
「ね、高木さん……私、自分の声が、なんだか遠くに感じて……」
紅鳴が、ようやく、絞り出すように呟いた。その声は、いつもの快活さを失い、か細く震えている。
蒼響は、紅鳴の言葉に、ゆっくりと顔を向けた。彼女の瞳には、紅鳴と同じ不安、そしてもっと深い場所にある、世界の未来への懸念が宿っていた。
「……あの虚無のメロディは、我々の『生命の音』そのものに作用する。君がそう感じるのも無理はない」
蒼響の言葉は、紅鳴の心の奥底に、静かに染み渡る。誰かに、この不安を理解してもらえるだけで、紅鳴の心は少しだけ楽になった。
「でも……どうすればいいんだろう。私の『情熱』が、あんなふうに吸い取られちゃうなら……」
紅鳴は、俯いて、自分のペンダントを握りしめる。
蒼響は、古文書をそっと開いた。
「古文書には、『声が真に失われた時、心の奥底に響くレゾナンス(共鳴)が、新たな歌を紡ぐ』とある」
彼女は、ページの片隅に描かれた、二つの光が寄り添うような紋章を指差した。
「我々の『声』は、単なる音波ではない。それは、感情であり、信念であり、そして、人々に希望を与える『光』だ。それが『奪われた』と感じるのは、君の心そのものが揺らいでいるからだろう」
蒼響の言葉は、まるで精密なオペレーションのように、紅鳴の心の深部にまで届いた。失われたのは、声の力そのものではなく、自分の「声」に対する「自信」と「信念」だったのだ。
「自信……信念……」
紅鳴は、古文書の紋章と、自分のペンダントを交互に見つめる。
「君の『情熱』は、誰かの心を照らす光だ。そして、私の『知性』は、その光が正しく届く道を指し示す。我々が、互いの存在を信じ、その役割を全うする限り、『声』が完全に失われることはない」
蒼響は、紅鳴の揺れる瞳を、真っ直ぐに見つめる。その言葉は、紅鳴の心の氷をゆっくりと溶かしていくかのようだった。
「私たちは、一人じゃない。互いの声が、最強のハーモニーを奏でる」
その言葉に、紅鳴の瞳に、再び希望の光が宿る。一人で抱え込もうとした不安が、蒼響の言葉と、その温かい眼差しによって、少しずつ溶けていく。
「私たち……もう一度、歌おう!」
紅鳴は、力強く立ち上がった。その声には、まだ微かな震えが残っていたが、確かに、再起のメロディが息づいていた。
「ああ。だが、無策では、二の舞になる」
蒼響は、古文書の別のページを指差す。そこには、過去の遺物と思しき「音波増幅器」の設計図らしきものが描かれていた。
「『虚無のメロディ』に対抗するには、既存の『声』を強化するだけでなく、その『声』を増幅させる『触媒』が必要だ。この情報を基に、次なる戦いの準備を始める」
蒼響の言葉に、紅鳴の表情が引き締まる。情熱だけではだめだ。知性も必要だ。そして何より、互いの力を最大限に引き出す「協力」が不可欠だ。
二人は、夕焼けに染まる公園で、再び未来への決意を固めた。
紅鳴は、もう一度、蒼響の横顔を見つめた。彼女の冷静な分析と、自分を信じてくれるその瞳が、今の自分にとって何よりも頼りになる「声」だった。
蒼響もまた、紅鳴の、不安を乗り越えて前を向く、その強い輝きに、静かな鼓動を感じていた。
不安は完全に消えたわけではない。しかし、一人ではない。隣に、互いを信じ、支え合うパートナーがいる。
その事実が、何よりも確かな「再起のメロディ」を、二人の心の中で力強く響かせていた。
「この二人が織りなす二色のシンフォニー セイクリッドボイス」。
奪われたはずの「声」は、今、二人の絆の中で、ゆっくりと、しかし確かな光を取り戻し始めていた。