人生楽ありゃ苦もあるさ

誰もが知ってる水戸黄門のテーマ曲のフレーズ。
楽あれば苦有り≠人間万事齋翁が馬
なんくるないさー
とか
そーんよかーー
とか
ケセラセラーー
て事なのだろうね。
それはそうと思う。
今は苦しいかも知れないけれど、楽な時だってきっと有るさ。という希望だったり
今が楽だからと言って、苦しい時が来ないとも限らんよ。という戒めだったり
各々、折々でとらえていくんだと思う。
それとは、ちょちょいと違った話し。
そもそも、楽って?苦って?
て考えてみた。
仏教の方で面白い事を言ってた。
何でも 苦受、楽受、非楽非苦受と三つの段階が有るんだそうだ。
ぱっと見、楽受ってのはポジティブな段階なんだと思うでしょ?
実はお釈迦さん的には、三つともが苦に繋がるんだそうだ。
非楽非苦受。なんてのはフラットないしニュートラルな状態を想像してしまうけど違うらしい。
釈迦っち的にオススメな状態は『無常』てゆわれるステージなんだそうだ。
ああ。なるほどこれはニュートラルな感じがして健全な気がするよ。
でも何だろう?そうなんだろうけどヤリスギっつうか……。ねえ?
味気ないっつうか
ただね、
楽を追い求めていくと苦に繋がる。って言うのは良く解る これは職業柄かな?
我々の言葉で『歪体(わいたい)』という言葉があります。
良く、「背骨歪んでますね」とか「骨盤歪んでますね」とか「性根が歪んでますね(←チガウ)」て言うでしょう?あれのこと
歪んだ身体=「歪体」
なぜ?骨格が歪んでしまうのか?
それは愁訴(※コリ、ハリなどの不快感)の根源となっている患部の不快(≒不全)な箇所を他の筋肉なんかで補おうと働くから
つまり(例)
足首の不全を補おうと楽な体勢をとる事で膝が歪み、膝の歪みを正そう楽な体制をとる事で骨盤が歪む
骨盤が歪んだ状態だと頭蓋骨が斜めな状態に陥るので頭が楽なように背骨(脊椎)が29継ぎ各々がそれぞれ歪む
不快な状態から逃れよう。楽になろうとすると、歪みを生じさせて更なる苦(不快)に陥るんだ。
この場合の「楽」のペクトルは不快から健全(快)な状態へ向かっている
正しく快へ導ければそこがGoalになる理屈だよね。正しくなければ歪みへ通じて苦に陥るのだから。
では、いちどGoalにたどり着き、ニュートラルな状態から更なる楽を求める事は可能だろうか?
否デスヨね?

だって向かうべきペクトルはもう存在しないじゃん。
だから、正しい導きから反して新たな苦へと暴走。妄想してしまうんじゃないかなあ?
そう考えてみると非楽非苦受ってのもなるほどだ。ニュートラルな状態でも無い。なんなら苦な状態だってのに楽にも苦にもペクトルが向かないので有れば行き着く先は苦しかないもの。
なにも身体に限ったことでは無いんだ。
苦しいのに、辛いから苦しくないふりと言う楽をして遂には精神を病んでしまったり、
私はまだ大丈夫と苦しみながら我慢しつづけ決壊してしまったり、
辛いよ辛いよって体育座りで塞ぎこんでいるまま。差し伸べられた手を掴むことさえできず拉致が開かない→非楽非苦受
苦しくても辛いのが嫌だから自分と向き合えない。受け入れられない。更なる苦に陥る。→苦受
人と人にだって当てはまるんじゃないかな?
心地よいとってもHappyな愛情が、最愛の相手というペクトルから逸れ、関係と欲望の執着へと様変わり。
自分を誰かを苦しめてしまう。
たぶん釈迦先輩の言う楽受ってのはコレなんだと思うんだ。
そんなこんなを考えてみた。
ペクトルの定まらない誤った『楽』
健全な快な状態から暴走してしまった『楽』
どうやら、この『楽』と言うヤツの真実に気づけず楽をしつづけていると何でもかんでも苦に陥っちゃうようだよ。
LABOの探求している『操体法』の創始者、橋本敬三先生は晩年「楽な動きと、気もちよさは違う」とおっしゃってらした。
真実の楽、ニュートラルで健全な状態を無常とするなら、なるほど我々の役割は更に重要だね。
「歪体」の説明はそのまま人体の相関相補作用にも通じるんだ。
だって身体が自ずと快へと向かおうとしてるのだから。
もちろん、そのペクトルは正してあげなければならないけどね。
正しく楽へと向かえなければ、向かおうとしなければ、苦に繋がる……。
それでも多くの人はペクトルを見失い、知らず知らず『楽』だけを求めてしまうんだ
そして苦しむ…………。
んーーなもんで
楽だから苦だよ。なワケさ

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誰もが知ってる水戸黄門のテーマ曲のフレーズ。
楽あれば苦有り≠人間万事齋翁が馬
なんくるないさー
とか
そーんよかーー
とか
ケセラセラーー
て事なのだろうね。
それはそうと思う。
今は苦しいかも知れないけれど、楽な時だってきっと有るさ。という希望だったり
今が楽だからと言って、苦しい時が来ないとも限らんよ。という戒めだったり
各々、折々でとらえていくんだと思う。
それとは、ちょちょいと違った話し。
そもそも、楽って?苦って?
て考えてみた。
仏教の方で面白い事を言ってた。
何でも 苦受、楽受、非楽非苦受と三つの段階が有るんだそうだ。
ぱっと見、楽受ってのはポジティブな段階なんだと思うでしょ?
実はお釈迦さん的には、三つともが苦に繋がるんだそうだ。
非楽非苦受。なんてのはフラットないしニュートラルな状態を想像してしまうけど違うらしい。
釈迦っち的にオススメな状態は『無常』てゆわれるステージなんだそうだ。
ああ。なるほどこれはニュートラルな感じがして健全な気がするよ。
でも何だろう?そうなんだろうけどヤリスギっつうか……。ねえ?
味気ないっつうか
ただね、
楽を追い求めていくと苦に繋がる。って言うのは良く解る これは職業柄かな?
我々の言葉で『歪体(わいたい)』という言葉があります。
良く、「背骨歪んでますね」とか「骨盤歪んでますね」とか「性根が歪んでますね(←チガウ)」て言うでしょう?あれのこと
歪んだ身体=「歪体」
なぜ?骨格が歪んでしまうのか?
それは愁訴(※コリ、ハリなどの不快感)の根源となっている患部の不快(≒不全)な箇所を他の筋肉なんかで補おうと働くから
つまり(例)
足首の不全を補おうと楽な体勢をとる事で膝が歪み、膝の歪みを正そう楽な体制をとる事で骨盤が歪む
骨盤が歪んだ状態だと頭蓋骨が斜めな状態に陥るので頭が楽なように背骨(脊椎)が29継ぎ各々がそれぞれ歪む
不快な状態から逃れよう。楽になろうとすると、歪みを生じさせて更なる苦(不快)に陥るんだ。
この場合の「楽」のペクトルは不快から健全(快)な状態へ向かっている
正しく快へ導ければそこがGoalになる理屈だよね。正しくなければ歪みへ通じて苦に陥るのだから。
では、いちどGoalにたどり着き、ニュートラルな状態から更なる楽を求める事は可能だろうか?
否デスヨね?


だって向かうべきペクトルはもう存在しないじゃん。
だから、正しい導きから反して新たな苦へと暴走。妄想してしまうんじゃないかなあ?
そう考えてみると非楽非苦受ってのもなるほどだ。ニュートラルな状態でも無い。なんなら苦な状態だってのに楽にも苦にもペクトルが向かないので有れば行き着く先は苦しかないもの。
なにも身体に限ったことでは無いんだ。
苦しいのに、辛いから苦しくないふりと言う楽をして遂には精神を病んでしまったり、
私はまだ大丈夫と苦しみながら我慢しつづけ決壊してしまったり、
辛いよ辛いよって体育座りで塞ぎこんでいるまま。差し伸べられた手を掴むことさえできず拉致が開かない→非楽非苦受
苦しくても辛いのが嫌だから自分と向き合えない。受け入れられない。更なる苦に陥る。→苦受
人と人にだって当てはまるんじゃないかな?
心地よいとってもHappyな愛情が、最愛の相手というペクトルから逸れ、関係と欲望の執着へと様変わり。
自分を誰かを苦しめてしまう。
たぶん釈迦先輩の言う楽受ってのはコレなんだと思うんだ。
そんなこんなを考えてみた。
ペクトルの定まらない誤った『楽』
健全な快な状態から暴走してしまった『楽』
どうやら、この『楽』と言うヤツの真実に気づけず楽をしつづけていると何でもかんでも苦に陥っちゃうようだよ。
LABOの探求している『操体法』の創始者、橋本敬三先生は晩年「楽な動きと、気もちよさは違う」とおっしゃってらした。
真実の楽、ニュートラルで健全な状態を無常とするなら、なるほど我々の役割は更に重要だね。
「歪体」の説明はそのまま人体の相関相補作用にも通じるんだ。
だって身体が自ずと快へと向かおうとしてるのだから。
もちろん、そのペクトルは正してあげなければならないけどね。
正しく楽へと向かえなければ、向かおうとしなければ、苦に繋がる……。
それでも多くの人はペクトルを見失い、知らず知らず『楽』だけを求めてしまうんだ
そして苦しむ…………。
んーーなもんで
楽だから苦だよ。なワケさ


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