【師のブログより】
この世には、財、権利、権力、地位、名誉、があちらこちらに転がっている。
それらを欲しいと思ってしまうのが人の常のように思う。
自分は拙僧だから、いつもそのような力欲しさに目をくらませてしまい、「我」を失って迷走をしてしまう時があるように思う。
自分は自分、人は人。
まあいいじゃないか!!
と思えば、地位や権力といったところに振り回されなくなれるように思う。
大きな「心」を持つことを、出来る限りに意識することが、自分の生き方や考え方にしっくりくる。
自分は自分らしく、拙僧ながらも「心」から幸せを与えさせていただき、一生懸命に日々幸せを祈らせていただける人になれたらそれでいいと思う。
人の先を見て計算をして付き合ったり、人を利用しようとしたり、そんな小さな世界からは、死ぬ時には、決して何も生まれないように思う。
そのような生き方は、何事も「我」が強くなり、「我」に執着をしてしまうので、自分を良く見せようと必死になったり、自分を良く見られたいと必死になったり、人を蹴落してしまう形になったりしてしまう。
そんな形では、自分の場合は輝けないし、心は浮かばれない。
残るものは、悲しみと苦しみだけのような気がする。
1度、捉われると、何事も悲しいし哀れになってしまう。
一番大切な部分でもある「心」ということをよく忘れてしまうものである。
何の為に自分の場合は行者になったんだろうか。
自分は名前を馳せる為にお坊さんになったのだろうか......‼︎
有名になる為なのだろか.......‼︎
いや、違う‼︎
ただ真っ直ぐに素直に人の幸せのお手伝いが出来るようになりたいと思って自分はお坊さんにならさせていただいた。
だからこそ、自分は自分‼︎人は人‼︎
今を必死に生きる。
なによりも「心」を大切にすることが出来たのならば、徳も人も勝手に集まっていく。
そこに集まる無数の宝は必ず結果で教えてくれる。
仏は「心」を愛する。
「心」こそが「宝」になる。
これをよく忘れてしまう自分はやはり拙僧だと思う。
そんな「心」を大切にしていく生き方が出来るからこそ、神仏はいつもニコニコと笑い、慈悲で見守ってくださるように思う。
神仏はいつも見ている。
それは、みんなの「心」の部分を見ているのかもしれない。
一日一生。
何事も今から‼︎ここからですよ(^^)
甘えも、弱さも捨て、ただ真っ直ぐに、信念を貫いて、誠の幸せを追求して、人生を歩んでいきたいものです。
合掌