エッセイ下手をなんとかしなければならない。早急に、火急的速やかに解決しなければならない。というのは、どうも、短篇がうまく書けない理由が、このエッセイ下手にあるようであるからだ。現在、アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』を読んでいるのだが、これが、まあ、信じられないような息の長さで、章立てなしに自然さを失わずに、文章がえんえん続いて行く文章で、興味深いが、今のぼくには絶対に書けない種類の文章であろう。

  今回は柄にもなく、ジャズについて少し書いてみたい。最近ぼくはモダンジャズばかり二十枚ほどCDをアマゾンで買い込んだので、早速その話をしたくなったわけである。二十枚足らずで、ジャズについてあれこれ語ったら、自分でも馬鹿だと思うが、どうせ馬鹿だし、やることもないので別にいいだろう。本当にジャズについて知りたいという人はそれなりの本を読んでください。

  ジャズという音楽は、現代文明に拮抗する唯一の音楽形式ではないかと愚考する。だから、もしジャズの文体で小説をものすることができたら、唯一無二の理想的文体ということになるだろう。問題はもちろん、なぜジャズは現代文明に拮抗し得るのか、である。
 
  大きな、人目に付き易い理由としては、差別的なのか知らないが、太古の初源的人間が、奴隷狩りの屈辱の果てに、アメリカで解放され、と同時に近代科学文明にバッタリ遭遇してしまった、ということだろう。進化論のダーウィンは例の学術調査でガラパゴスのあの辺りを船でへ巡っている時、陸にいる黒人奴隷があまりに不当な仕打ちを受けているのを目にして、吐き気がしたらしい。だから、一応、ジャズを語る時はそういう重い背景を抜きには語れないかも知れない。もっとも、人間の受ける苦悩や苦痛は、本当に特権的か、一民族や、人種に代表され得るか、と問うと、疑問だ。人間の受ける最大限の苦痛なんて結局、誰が受けようと同じだ、というようなことを大江健三郎も書いていた。絶対量は不変、変わらないと。そうじゃないとしたら、本当にジャズは黒人しかやってはいけないことになってしまう。

  二つ目の大きな特徴に不協和音というのがあり、これが同時に、現代文明を語る上で非常に重要なキーワードになっている。トマス・ピンチョンは音楽がわかる人にとっては、不協和音というのは、新しい協和音なんだと、『重力の虹』に書いている。最近では香港民主化運動のリーダー格の女性が中国当局(と、言っていいと思うが)に逮捕され、取り調べを受けた折り、日本のアイドル・グループの歌である「不協和音」という曲が頭の中で鳴り響いていた、との発言がニュース報道されたのが印象的だった。つまり、われわれ現代人というのは、かつての牧歌的な調和の取れたアンサンブルのなかには残念ながら住んでいない、ということである。ヴィジオネールの画家ボッシュなどは不協和音を悪魔の音楽と思っていたらしい形跡もあるようだ。だとすれば、現代人とはまさに地獄そのものに住んでいる、ということである。山下洋輔の『クルディッシュ・ダンス』にはそういう曲も入っているのではなかろうか。ニーチェの言う、身の毛もよだつような深淵から、逆再生されるようなギリギリの音楽が。

  三つ目の要素は、リズムや音色であろう。特にリズムに関しては、黒人の音楽という特色を抜きには語れないかも知れない。レッド・ガーランドの「アッマード・ブルース」など信じられないようなリズム感だと思う。スイングということで思うのは、ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』に於けるコール・アンド・レスポンス(各楽器のかけ合い)の見事さだ。踊りながら歌う男が、高層ビルの影から現れ、またビルに隠れ、また現れる、といった映画のワンシーンを想い浮かべてしまう。そこでは、いい意味で都会の光景は書き割になってしまっているわけである。

  四つ目の音色というのは、演奏の良さである。クラシックの場合、聴き惚れるとしたら、それは曲がいいからで、確かに下手なオーケストラが演奏したら台無しに違いないが、逆に上手いと言っても一定限度のレベルであり、オーケストラそのものの演奏の良さを語り草にするということはまずない(高校時代、国立大に入ることになる友人が、指揮者不要論について、指揮者はオーケストラという楽器を演奏している、と大変わかり易い説明をしてくれたことがあった。だから、「名器」のオーケストラはあっても、オーケストラそのものの演奏の良さという言い方は一種の形容矛盾だろう)。これがまた、現代文学の理論である。筒井康隆によれば、現代の文学というのは、もはや何を書くか、ではなくて、いかに書くか、に推移して来ているらしい。ガルシア・マルケスは独裁者小説がジャンル化されるほど南米に於いて大量にあることを承知の上で『族長の秋』を書いている。

  マイルスの「ラウンド・ミッドナイト」もコルトレーンの「グリーン・スリーブス」も演奏の深度を聴いているのだ。尤も、「作家」コルトレーンの場合は『ダカール』に於いて、名付けられていない「ジャンル」の音楽ということをやっているかも知れない。

  さて、ジャズにはこれらの要素を超えて、自由、という要素がある。小生はジャズに初めて目覚めたのは、セロニアス・モンクの「イージー・ストリート」だった。ただ、その覚醒の感覚はその後は二度とやって来なかった。今でも、ことジャズに限っては、今日はよく聴けたなあ、という日と、駄目だなあという日がある。しかし、最近、ここに三日連続で聴いても凄かった曲がある。1975年録音の山下洋輔トリオの『マンフレッド・ショーフ・ミーツ・山下洋輔トリオ/ディスタント・サンダー』の冒頭曲「ミトコンドリア」(坂田明作曲)である。この恐るべき曲はいかにも人類の原始時代の音楽はこうもあったろうという楽曲だが、絶対に歴史上存在しなかった音楽なのだ。圧倒的な暴君の如く人に有無を言わさせないものがある。壊れてしまう、ということをこれほど心配する曲もない。まさにレッドゾーンに入りっ放しだ。岡本太郎氏、この曲をどう言っただろう。もし、語録なりインタビューなりあったら知りたいところだが。 

   
   ※  人類のアフリカ起源説というのは、現在、学問的に揺れているらしい。黒人の人種差別問題とは、たとえば、コルトレーンの「アフリカ・ブラス」といった曲を認めるか、否かだ(それとも、コルトレーンは白人文化にやらされたのだろうか? 言っておくが、認めるのは超人的な作業ではなく、それで初めて人間だ)。それが、知性の問題。
 (付記。2020年 9月 22日)