昔は情報源というと、書籍、新聞、雑誌、週刊誌、漫画、映画、ラジオ、テレビ、世間話ぐらいだったわけだけど、まあ、変わりましたよね。ぼくはユーチューブで「週刊プレイボーイ」をチャンネル登録しているが、雑誌が番組を持つなんてことも、もちろん以前にはなかったことだ。見ていると時々、グラビアアイドルのオンラインサイン会なんてのをやっていて、物珍しい光景なので特にそのグラビアアイドルのファンではない時も、一定時間見てしまう。では、情報源は現在どれくらい増えたか。わかりやすい簡単な例で言うとNHKだ。地デジの総合とEテレにBS放送のBS1、BSプレミアム、BS4K、BS8Kと全部で六つある。東京の所謂キー局はすべてBS放送をしているが、これにネットで視聴が可能なTVerも加わった(内容は地デジと同じにしても)。BSはさらにWOWOWやらスカパーやらスターチャンネルやらにスポーツ専門局、映画専門局もある。ラジオもネットのラジコで聴取可能。これにインターネットそのものを入れると、まずニュースアプリがいろいろある。各種ブログもいろいろある。ホームページはゴマンとある。SNSは先程言ったユーチューブにツィッター、フェイスブック(メタ)、インスタグラム(メタ)、Tiktok、ニコ生(これはSNSなのかな)など。動画配信サービスはネットフリックスやアマゾンプライムやHuluやディズニー+やU-NEXTやグーグルテレビ(これは動画配信サービスというか動画サービスか。ぼくはこれで映画をレンタルしている)など。ポルノサイト各種。DMM(これでぼくが何をレンタルし視聴しているかは御想像にお任せする)。整理して書いてみると意外に少ないという人ももしかしたらいるかも知れないが、仮に今列挙したこれらのコンテンツメディアのすべてを視聴し、昔ながらの新聞(読・朝・毎・産・経の大手五紙)、雑誌、書籍なども含めて読書し、視聴しているという人がいたとしたら(いるわきゃないか笑)、その人は得た情報の情報源を何時間後かに記憶していられるだろうか? 


  すでに二十世紀という時代がこれまでにない社会が到来した時代だったが、二十一世紀はその傾向がいっそう加速度を増し、歴史上類例のない時代になるのではないか。オルテガは大衆の時代を発見し特徴づけたが、情報化時代はその大衆をも解体して行くように見える。大衆文化上の一定水準のポピュラリティを構築するのが難しくなり(その反動形成を狙って政治では安易なポピュリズムが跋扈する)、本質的な大きいパイを取りきれず良貨を駆逐された市場は際限なく細分化し徒らに専門分化して行こうとする。そのことがまた大きなパイの形成を難しくする。ネットにいる匿名の人々はかつての大衆社会が成立した時代の匿名の人々ではない。言ってみれば無名のタレントだ。 従ってネット上にいる有名人も(地デジで見る有名人も結局は同じなのだが)かつて成立した大衆社会(ポップカルチャー)での有名人ではなく、無名のタレントたちの中から浮かび上がった有名なタレントたちである。東京の飲食店などではごく普通に有名人が来店し、そこに居合わせた「素人」は殊更にそのことに反応したりしない(驚いたり、サインを求めたり等の反応をしない演技を強要される、と言った方がいいかも知れないが)。と言うのも、彼ら「素人」には実際にもタレント志望者が少なからずいるという理由からだけでなく、そうではない場合も東京という場所に住んでいるだけで彼らは潜在的なタレント予備軍だからである。インターネットというディスクールはそうした世界的な大都市の生活空間へとわれわれの日常生活を変えてしまったのだ。いわば究極的かつ全般的な都市化がインターネットである。つまり一般庶民が無名のタレントを演技しているのではなく、無名のタレントが一般庶民を演じているのだ。こうした社会では専業のタレントは一方では限りなくロールモデルに近くなって行くだろう。キャンセルカルチャーとは今やロールモデルでしかなくなった、より生のリアリティーを伴う「同業者」のタレントに対して感ずるごく薄い彼我の「差異」への嫉妬でありフラストレーションだ。この一億総タレント社会はすでに預言されていたことであった(筒井康隆『48億の妄想』)。これから本格的にやって来るのはその延長線上にある宇宙時代的なゼログラヴィティ文明であろう(短篇「農協月へ行く」)。