昨日、スマホを充電したまま寝てしまい、起きて、あわててプラグを抜いたが、画面が暗いまま、電源スイッチを押しても反応がない。LEDが一定間隔を置いて点滅しているのでバッテリーは死んではいないようだったが、過充電で壊れてしまったかと、今日ショップを訪れたら、男性店員がものの二、三分で直してくれた。アプリの入れすぎでフリーズしていたという。そんなに入れたかな? 専門店がいろいろある大型スーパーと少し離れた場所に併設されているので、そこの本屋に行き、未読の本が本棚に五十冊はあろうかというのに、また数冊買ってしまった。『人類よさらば』などという筒井康隆の「新刊」があり、吃驚りした。家で解説を読んだらば、過去の作品(ショートショート作品)を集めた、文庫本としては未収録の作品集のようだった。確かに知らない作品ばかり。年末には「文學界」一月号をアマゾンで購入。筒井氏の掌篇「文士と夜警」を読んだ。夜警というとレンブラントしか想像できなかったが、しばらくしてキルケゴールの『不安の概念』の解説を思い出した。この作品は私小説のメタフィクションという最近の筒井康隆作品のひとつの傾向にある作品だが、登場人物との邂逅が内容である。三年前か、四年前か、五、六年前か、記憶が早あやふやだが、なにをどう血迷ったか、『ヘル』の登場人物である柴田まゆみちゃんを動画投稿サイトの検索にかけてみたことがある。因みにおれの柴田まゆみ評は史上初の紙の上のタレントというものだったが、検索してみて仰天、彼女は実在したのである。柴田まゆみはシンガーソングライターだった。おれの幻覚だったのか、筒井康隆が実在するシンガーソングライターである彼女の名前に無知だったのか、知っていてわざと書いたのか、それとも…と狐につままれたような妙な思いをした。書きかけの小説は行き詰まったままで、なぜなのか考えるうち、手塚治虫版『メトロポリス』が気になり再読したりしている。フリッツ・ラング(だったと思うが)の映画の方は未だ未見。冒頭に太陽の黒点騒動があるが、「世界はゴ冗談」の冒頭はこの作品のパロディなのか(オマージュ?)。「胸苦しくさせるものは、あれこれのものではないが、それだからとて、すべての事物的存在者をひっくるめた総計でもなく、道具的存在者一般の可能性、言いかえれば、世界自身なのである」「道具的存在性の無は、その根拠を最も根源的な『或るもの』のうちに、つまり世界のうちにもっているのである」(ハイデガー『存在と時間』第四十節より)。道具に位階はあるんだろうか。もう一度、「世界はゴ冗談」を読もう。