スーパーマン願望というのは男性の心理に抜き難く存在する。抜き難いから悪いというわけではない。しかし、いざ抜けようと決心したとしても、文明生活を送る限り、まず抜けられないのがスーパーマン願望だろう。今流行りの半沢直樹だって、立派なスーパーマンだし、水戸黄門もそうである。
僕は子供の頃「空手バカ一代」というアニメを見て、たちまち熱に浮かされるようにして取り憑かれ、空手道場に通い始めた。空手家に憧れるとは、最も原始的で端的なスーパーマン願望だったろう。
正拳突きで柱に五寸釘を打ち込めるとか、空手チョップでビール瓶の栓など抜かずにネックを叩き折るとか、猛牛を素手でやっつけるとか、本当にやる人がいるので別に騙されたわけではないが、自分もただちにそうなれると信じて道場に通ったものだった。「ルパン三世」にもイカれたし、映画「大脱走」のスティーブ・マックイーン、映画「ダーティーハリー」のクリント・イーストウッド、いずれもスーパーマンである。
自分で直接的に手が下せないとなると、ロボットを操縦して悪を成敗する、というのは変形した、ないし、いささか屈折したスーパーマン願望である。僕が子供の頃、つまり1970年代に大量にロボット・アニメが流行り、生産されたというのは分析してみる価値のある現象かも知れない。
祖型は「鉄人28号」だろう。これはラジコンだったが、永井豪が「マジンガーZ」 においてロボットに乗り込むことにした、というのはいかなる意味があったのだろうか?
80年代、日本において、ロボットは古くなり アンドロイド が生まれた(映画「ブレードランナー」。当時、青少年がこの隠喩を愛したのは、スーパーマン願望とはやや事情が異なる)。90年代にはシステムに侵入し、システムと戦うことになった(映画「マトリックス」)。とはいえ、端正な顔立ちをした草食系のキアヌ・リーブスもやはりスーパーマンだった。それはパート1のエンディングを観たら何より明らかだ。
そして、スーパーマンは何も格好いいものばかりではない。ある世代にとってコミックバンドのクレイジーキャッツの面々は完璧なスーパーマンだったろうし、僕の世代で言えば、ビートたけし演ずるタケちゃんマンはスーパーマンのパロディでありながらスーパーマンだった(と同時に、この放送が始まった小学4年生の時、僕は空手道場をやめている)。ジャッキー・チェンもブルースリー映画に笑いを持ち込んだ(ただし師弟愛は感動的に描かれているし、彼の体技はフィルムに定着させるに価いする、全くの本物だった)。
このジャッキー・チェン辺りがスーパーマン願望の一つの分岐点というか、カルチュラルヒーロー(文化英雄)と端的な肉体的スーパーマンの中間に位置する人である。
けれども、じゃあ、カルチュラルヒーローの本質とは何かと言ったら、結局はスーパーマンであり話が先に戻ってしまう。それでは、このスーパーマン地獄からはやはり、えんえん抜けられないのだろうか? でも、しかし、エロくなればどうだろうか。
君はドン・ジュアンや カサノバをスーパーマンと呼ぶか? ここで僕はわからなくなる。少なくとも昔の諺はこうだ。「色男、金と力はなかりけり」。しかし彼らをスーパーマンとは呼ばないというのは一種、偽善的な気もする。といって、彼らをスーパーマンと呼んでしまうとスーパーマンの定義を変えなくてはならない気がする。つまるところ、レイア姫を手に入れてしまえば「スターウォーズ」はもう終わりだということだ。
じゃあ冒頭、お前が例に出した水戸黄門は何を手に入れるんだと言われると答えに窮する。肛門(アナル)を手に入れる、などと言ったら張り飛ばされてしまうだろう。