コスモスと呼ばれる静止軌道上に蜘蛛の糸でつながって浮かぶ宇宙エレベーターの保守点検から地上に帰還したおれたちは昂った神経のままキャブに乗り込んだ。昔SF映画にあったような西洋のマリオネットじみたロボット運転手が運転するキャブだ。コロニーと同じ仕様の青い制服を着たロボットが首だけこちらを振り向いて言った。
 「どちらにやりましょう?」
 「10番街のゲームセンターにやれ」
  同僚のイサムが何の躊躇いもなく言った。会社に戻ったところで何処にもデスクワークなどはなく時間を持て余すだけなので、喫茶店で暇つぶしをするのが我々の常態だった。
  が、それにしてもイサムはもはや仕事中にゲームセンターに行くことをなんとも思っていないらしい。
  整然と荒廃したという風情の都会の街中を目のなかに泳がせながら、おれは一応うんざりした口ぶりで言ってみた。「さすがに部長に見つかったらアウトだぜ」
 「かまうもんか」イサムはこちらを見もせず、ニヒルに笑った。「奴の息子はフォーミュラワンのレーサーだからな」
  おれはイサムの言動を頭のなかでつなげるのに十秒ほどかかった。「お前、部長の息子にライバル心を燃やしてるのか」
  もちろんイサムはいかにも大儀そうに否定した。「別にライバル心なんて馬鹿らしいものはない。ただ、こっちだって副業ぐらいはさせてもらわないとな」
  巨大なシャンデリアの如き建物のゲームセンターに到着すると、イサムがイキまいた。
 「おい、おれはこれからF1をやるんだ。賞金が獲れたら運賃を払ってやるよ」
  ロボット運転手は口を大きく二、三回上下にスライドさせた。「そういうのは困るんですがね、お客さん」
 「だまれ、くそロボット!」
  数瞬の沈黙の後、ドアが開いた。そんな反抗をしても、どうせ乗車料は給料からサッ引かれるだけだから無意味な芝居だったが、やりたくなるのだ。しかし、あれ以上言うと機械侮辱罪でキャブのドアが開かなくなる可能性もあった。
  得たいの知れぬ遊び人が入り乱れるゲームセンターで、おれはレトロというよりは博物館行きと言った方がいい、ちゃちなジオラマの競馬ゲームに耽った。ところが、大穴が当たってしまい、ドル箱に三杯分のメダルが出て、何に使おうか思案しているところに、見るからに命令感情を携えたイサムがやって来た。
 「ゴロウ、エントリーできたぞ」
 「好きだなあ」
 「お前の分も取ったから早く来い」
  苛立つイサムを背にして、おれはメダルを急いで換金し、彼についてF1のコーナーに走っていった。
 「よし、やってやらあ」
  コックピットは全部で五つ。他の三つの席は埋まっていて、向こうの端に若い女性が一人、彼女よりさらに若い高校生らしき、ひ弱かつ太った男たちがそれぞれ中央の二つのシートに座っていた。モニター上の大きな数字はすでに五分を切っている。おれはこちらの端のシートに着座した。左横に腰を下ろしたイサムは武者ぶるいをしていた。
  画面の向こうは今は真昼のモンテカルロ市街地だ。そして、歴史あるホテルやブティックの建物に見下ろされるようにして、サーキットの底に、エンジンのかかった、運転席のない、流線型の車載カメラが潜望鏡のように突き出す、本物の一千馬力のF1マシンが轟音を響かせんと各自スターティング・グリッドに待機している。
  つまり、これはドローンであり、そのレディオ・コントロールの権利がオンライン上で公開抽籤されていた。普通はエントリーや賞金獲得時に煩雑な手続きが必要なのだが、ゲームセンターでは手数料さえ払えば、ワンタッチででき、もし抽籤に当たらなくても、全額ではないが払戻金が出る。エントリー当選の確率は決して低くはなかった。少なくとも、おれが先刻出した大穴よりかはずいぶんと高かった。何故かと言うと、当然マシンには特殊かつ高額な保険金が掛けられていたが、それでも事故を起こした場合、破損に応じてあまり安くはない罰金があるからだ。その代わり、優勝すればがっぽりとお金が手に入る。
  画面の数字が一分を切り、消えた。イサムはまだ震えている。
 「そんなに震えてて運転できるのか」
 「うるさい」モニターを食い入るように睨みつけていた彼は今度はおれを睨みつけた。「この間は二位だったんだ。優勝しやがったのは部長の息子だよ。悔しいがベストプレイヤーさ。専属でスポンサーもついている」
 「やっぱり面白くないじゃないか」おれはイサムをちょっとからかってみた。
 「ああ、そうさ。ちっとも面白くないね」
  車に乗った方が本音を言うのは悪人か、善人か。
  おれはおもむろにステアリングを握った手でパドルシフトをローギアに入れた。
  するとイサムは何を思いついたのか軽蔑の笑みを浮かべるとおれの顔をじっと伺い、また前に向き直って言った。「そうそう、お前、逆走するなよ」
  おれは言った。「逆走? なんだい、それ」
  イサムは急に真顔になった。「お前には老人臭いところがあるからさ。ニック世代だ」また笑った。
  ニックとはニック・オリベイラのことだろう。ずいぶん昔に引退した実際のレーサーだった。タコメーターが壊れても耳栓から洩れ聞こえるエンジン音だけで精確に回転数がわかったためピットインしなかったという有名な逸話があった。おれは、イサムの言葉に何かこのF1ゲームにまつわる重大な風聞を思い出しかけたのだが、スタート前の切迫でそれどころではなくなった。
  赤いランプが五つ並んでいき、消えた。
  一気にアクセルを全開に踏み込むと耳許のサラウンド・スピーカーから途方もない爆音が響き、シートがびりびりと震えた。いったいどういう仕組みなのか、加速度Gで身体がシートにめり込んだ。
  おれはアルベール通りを疾駆し、レッドゾーンぎりぎりまでアクセルを踏み込んではシフトアップしていき、たちまちトップギアに入れると、すぐさまシフトダウンしてサン・デボーテの右コーナーに勢いよく飛び込んだ。ここで一台をうまくオーバーテイクし、続くボー・リバージュの長い上り坂でさらに二台、抜き去った。ライン取りが極度に難しく、時々側壁に擦りそうになって、肝を冷やしながら、やがて現れたマスネの左コーナーでおれは、縁石にタイヤをのせてまで強引にイン攻めをして、また二台を抜いた。カジノ・スクェアの右コーナーではシフトチェンジに失敗したらしい三台をパスすることに成功した。ミラボーのヘアピンに近い右コーナーではマフラーから激しくバックファイアしている、たぶん高校生のうちのどちらか一人を抜いた。おれだって自動運転しか知らない世代などに負けたくはなかった。雪崩を打って皆がグランドホテルのヘアピンに進入すると案の定、七、八台を巻き込んだ多重接触事故が起きた。おれはそれをバックモニターで視認した。どうやら罰金を免れたのはおれとイサムだけだったらしい。彼はおれの前を走っていた。水平に落ちるあり得ない砂時計のように、コーナーに入る度に、身体中の血液を左右片一方に寄せ集めることを繰り返し、左半身を殆ど麻痺させながらミラボー・バスを抜けると、おれの前にはもう誰もいなかった。ポルティエのコーナーから陽光にさざめく一瞬の海を見て、下り坂が終わり、ビルディングのピロティのようになっている四角いトンネルに突入した。ナトリウム灯に照らされたフォーミュラワンはそこでワープでもするかのように速度を上げた。しかし、そのトンネルを抜けると、おれはとんでもないものに出会ったのだ。一台の車がもの凄いスピードで逆走して来る。それがわかった時、おれは子供の頃に親しんだ古い名車図鑑の記憶が蘇った、おれは叫んだ。
 「デ・トマソ・パンテーラだ!」
 「よけろーっ!」
  横でイサムも叫んだ。
  正面衝突せんとする二台の車の相対速度は六百キロを軽くオーバーしていただろう。おれにはもうステアリングを一ミリも切る余裕もなかった。だが、まさに神業としか言い様のないテクニックで蒼いデ・トマソ・パンテーラは衝突を回避し、天使の衣擦れのように、すんでのところを通過した。おれの後ろをぴったりとつけていた後続のイサムもわずかにケツを左右に振っただけで助かった。
  おれは海沿いのコースのシケインを越えながら第二波に備えて身を強ばらせていた。だが、あのパンテーラは二度と現れなかった。
  レースが終わっても、おれはシートから立てず、いささか呆然となっていた。結果はおれたち以外の全車が失格になってしまい、おれとイサムのワン・ツー・フィニッシュになった。
 「あのデ・トマソはひょっとして噂の」
 「らしいな、この安全無比のカーレースの大いなる勲章だ」イサムはしれっとした、とでもいう口調で言う。
  おれは心の深いところに何か動揺を覚えながら言った。「あんなテクニックはあり得ないよ」
  イサムはシラケきった目でまじまじとおれの顔を見つめた。「ゴロウ、信じるのか? 単なる伝説だよ。あいつの正体はたしかに昔のレーサーの誰かかも知れない。ただし、現在は白昼のサーキットに時々迷い込む、ただのゴロつきの惚け老人さ」
  ニックが銃撃されたという海外の速報を電子新聞で読んだのは日曜の宿直日だった。おれはコスモスのホテルのラウンジでそのニュースを知った。ネット喫茶のエントランスをくぐり、ブレイン・マシン・インターフェースで、しばし見知らぬブラジル人女性と脳内交流をした後だった。つまり、これがこの社会のセックスなのだ。
  ニック・オリベイラは四十数年前にカーレーサーを廃業してから、タレント活動などをして生計を立てていた。自宅のガレージには年代物の名車が十数台あり、それらはエンジンもボディも完璧にレストアされていた。近年、F1ゲームレーサーの間で突然にコースを逆走して来る謎の車のドライバーとして噂された往年の名レーサーのうちの一人だった。そして我々がパンテーラに遭ったその日、彼はモンテカルロにいたのだ。ニックは市からロボットの運転技術にささやかな改良を加えた功績によって顕彰され、カフェでインタヴューを受けている最中に車に乗っていずこかへと行方をくらましてしまっている。そこに映っているのは愛車の一台であるパンテーラだった。しかし、晩年のニックに関しては少なくとも認知症の疑いがあった、記事にはそう書かれていた。
  銃撃という用語から考えても、彼はコロニーのネオ・ラッダイトなどの運動に関与していたのかも知れない。たしかに、ニックの生きる場所はもうこの地球にもコロニーにも残されていなかった。
  ただ、彼の名誉のために言えば、あのジャックナイフに於ける運転テクニックは偶然ではなかった。おれにわかるのはそれだけだ。