無名のアーティストが作品を発表する場合、当然のことながら、作品を判断する材料は当の作品のみかも知れない。
ドキュメンタリーなのか、フィクション性が強いのか、幻想的なのか、コンセプチュアルなのか、シュールなのか、といった作品のレヴェルの判断はその作家の名前や来歴や国柄や彼のその他の作品に依拠できないかも知れない。
これは、芸術鑑賞の理想としてはでき得るかぎり先入見なく白紙に近い状態で臨むのがもっとも良いとする立場から考えればまさに理想に等しいだろう。
しかしながら、まさに無名の作家の場合はその作品でのみどういう作品であるかが判断される故に、作者の意図がどうであろうと、それだけ誤解される余地も大きいであろう。
しかも今回のあいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」は、実質的なプロデューサーである津田大介氏により「これが政治的には一番ヤバい」といった、作品の政治性と展覧会の「キワモノ」性がかなり明確に意識されていた。
「キワモノ」として鑑賞者を惹きつけ間口を広く取るということは、通常の芸術祭とは作品受容のしかたが異なる鑑賞者も来場するわけで、その分また誤解を生み易いことは言うまでもないし、真正に作品が受け取られるにしても、特に内容が政治的であることを意識していたとすれば、反対のイデオロギーの持ち主による極端な暴力的反論(即ちテロリズム)も、予測としては予測しなければならない。
そうした場合、確かに作品を公表する前のあらかじめの自主規制であるとか、事前検閲はするべきではないとぼくも考える。
だが、今回のあいちトリエンナーレでは周知の如くそれら作品群の発表後に右翼によるテロ予告がなされた。このような場合、作家が取り得る自作への態度は二つしかないだろう。
一つは社会の検閲的規制に対して、自分としてギリギリ妥協できる表現にまで作品を偽装、変形する(フロイトの説く夢の仕事のように)ことであり、つまり社会の検閲をパスできる表現に何度でも作り変える、という態度である。
そこで二つ目の態度とは、作者としてもうこれ以上、どうしてもこの作品の表現は表現しようがないというのであれば、規制・検閲に対してはスッパリ諦める、葬り去られるに任せる、もうその作品の公表は一切しない(できないのだから)、ということである。
このほど再開を決定したあいちトリエンナーレは、再開することによって、今申し述べた二つ目の態度は取らなかったことが明白だ。そして、どうやら一つ目の方法も取らなかったようである。
簡単に言って、衆目の見るとおり、芸術そっちのけの政治オンリーの泥仕合になってしまい、従ってそれらの作品群がより以上にイデオロギーに偏向した見方をされたとしても致し方ないだろう。