小学校三年生か四年生のころ、学校の帰り道にチンドン屋に出会ったことがある。何の宣伝でやって来たものか記憶にないが、大須には演芸場があるのでそこから名古屋の街々を歴回っていたのかも知れない。ぼくは昭和四十四年生まれで、この年、アメリカはアポロ計画による月面着陸を敢行している。小学校四年生の時と言えば、京都に父と二人で廃線になる直前の市電に乗りに行ったこともあるけれど、いずれにしてもチンドン屋なるものはぼくの時代にはもう古臭い半ば忘れ去られた存在だった。男は本当にそういう髪型にしていたのかカツラだったのか、月額でちょん曲げを結って岡っ引きのような格好をしており、女は女房のような着物を着て例の太鼓、鉦、から傘のチンドン太鼓を体の前に担いでいた。チンドン屋である以上、派手な着物を着ていただろうとも思うが、ぼくの脳裡には何故かふたりともモノクロームの印象しか残っていない。編成上、最低限あと一人クラリネットかラッパなどを吹く楽士役の芸人がいた筈だが、ぼくは元来もの憶えが悪いので、これも記憶にない。岡っ引きはたぶんビラでも配っていたのだろう。下校途中のぼくらは四人ぐらい残っていただろうか。派手な着物など着ていなくても十分もの珍しかったのは言うまでもない。たちまち引き寄せられた。
…東西ー東西ー!
…サァさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!
…ぼくちゃんたち、あとで菓子やるからついてきな
そんなことを岡っ引きの男が呼ばわっていたように思う。あいにくとAはチンドン屋が出現した五坪程の駐車場の斜め真向かいに住んでいた。Aはいくぶん名残り惜しそうに門扉を押し、ガレージ横の石畳のアプローチに入っていった。玄関を開けると彼は母親を呼んで何か言った。出て来たAのお母さんはぼくらに気づき、微笑んでやはりAに何か囁いた。珍しいね、と言ったようだった。Aはクラシックギターを習っていて、だから両親は音楽に関わるものなら何であれ理解があったらしい。ぼくらはチンドン屋御一行様になりきって、始まったばかりの旅から離脱する彼を黄金バットのように笑い、ハーメルンの笛吹きよろしく、チンドン屋の後えをついて行った。
ぼくの家はそこから百メートル程も直線で行ったところにあった。コーヒーの仲買を個人で営む親戚の伯父から格安で借り受けていた古い雨漏りのする家だった。現在、グーグルのストリートヴューで確認すると、その近辺はいかにもオシャレな建て売り住宅街に変わってしまっている。毎年台風が来る度に母親が気を揉んで、過ぎ去る度にこの木のおかげでこの家はもっとるよと言ったクロガネモチも残っていない。
今、考えると、あの連中は年端のいかない餓鬼を集めてどういう宣伝効果を期待したのか。もとより宣伝効果などは期待していなくて、彼らとしては昔ながらのサービス精神を発揮したに過ぎなかったのだろう。子供が親に話すと言っても、当のその親がチンドン屋そのものに目を奪われて、口上までは憶えていなかったに違いない。実際、子供だったぼくは、彼らが何の宣伝をしていたのかわからなかった。しかし、これはその後起きた小事件のせいでぼくが記憶から消し去ったのかも知れないとも思うのだ。
町は古い長屋と螺旋階段やエレベーターのある吹き付けタイルのマンション、スーパーカーブームでコルベットが停めてあるのを目撃したピロティ構造の鉄骨のアパートや薬湯と電気風呂の銭湯、それこそ乱歩の世界にでも通じていそうな看板もない黒い板塀の民家の写真屋、つげ義春の漫画に出てきそうな窓から蒸気をもうもうと出すクリーニング屋などが混在していた。十メートル程歩いたところだった。その長屋の一角から主婦が出て来た。或いはたまたま家の外にいてぼくらの様子を窺っていたのだろう。上級生でも下級生でもぼくらは同じ学区内は集団で登校していたから、そのおばさんには少なくとも小学生の子供はいなかった。近所の人だが初めて見る人だった。
おばさんは「そんな人たちについて行っちゃいけない」とチンドン屋の後ろをついて歩くぼくらに言った。
「おい、あんた、そんな人たちたぁ、どういうことだい」不意にチンドン屋は足の運びを止め、聞き捨てならない台詞に若い岡っ引きが食ってかかるように言った。
その後の二言三言の双方の声高なやり取りは大人の会話だったのでぼくにはわからなかった。ただ、はっきり憶えているのは、若い男のその時放った「おれたちは夢を売ってるんだ」という叫びと自分の気持ちの変化だ。ああ、この人たちは何か悪い、何か胡散臭い人たちなんだ、そう思うのと同時に、この人たちは何か弱い人たちなんだというずるい考えも浮かんでいた。そして自分も何か悪いことをしたという反省顔と引き換えに、彼らをより弱い立場に追い込むことを承知でおばさんの囲む「強い愛」の腕のなかへと逃げ込んだのだ。
チンドン屋は捨て台詞のひとつでも吐いただろう。祝祭的な雰囲気は突如かき消され、素に戻ってしまった彼らは怒りに満ちながらも諦めた様子で立ち去った。四つ辻を曲がらずに、そのまままっすぐ晩春のアスファルトを進んでいった。それでチンドン屋が行ってしまうと、ぼくらはおばさんの持つ引力が思いがけず弱いのにたじろいだ。ぼくらは子供心にも間に立たされ、やがて曖昧な態度のまま、また歩き始めた。途端におばさんは、ついて行っちゃいけないと叫んだ。
「家があっちなんです」とぼくは自分でも冷静に答えた。辻で友達の一人と別れた。今やチンドン屋は楽の音を鳴らさずに二十歩程前方を黙々と歩んでいたが、岡っ引きは二度三度と顔を横に向けると、振り向きざまにぼくらに怒鳴った。「このヤロー、ついてくるんじゃねぇ!菓子なんかやらねーぞ!」
「ねぇ、公園で休もうよ」女が疲れた声で言った。
次の辻でチンドン屋は右に曲がったので、同じ方角に帰らねばならない気の弱いKが立ち止まった。ぼくもいささか呆然と立ち止まったものの、チンドン屋は次の角を左に折れ公園に向かうらしいとわかったので、ぼくらは悄然として別れた。ぼくは家に帰り、早速、母親に話した。今頃珍しいな、と母は言った。音楽鳴らしとったろう。ぼくはおばさんについて行くなと言われたことを話した。母は何処の人かと訊き、あきらかに困惑しているようだった。そのうち「まあ、今時はその人の言うとおりかも知れんわなあ」と独り言のように言った。ぼくは家でしばらく遊んだ後、辻で別れたIの家に遊びに出掛けた。Iの家は門構えの立派なちょっとした旧家だった。ぼくらは外で遊ぶことに決めて、すぐ近くのH市場の前まで来た。すると、そこになんと、あのチンドン屋の男女がいたのだ。彼らは市場の裏の空き地にじっと座っていた。女が泣いていた。
「もういいじゃねえか」と岡っ引きの役者が言った。慰めていた男がふと、ぼくらの視線に気がついた。
「なにジロジロ見てやがんだ」
男の声に女も顔を上げてこちらを見ると憎々しげに言った。
「本当にいけ好かない餓鬼だねぇ!」
記憶はここまでしかない。
ぼくはこの時一緒にいたIに二十代の頃、この話をしたことがある。ところがIは憶えていないというのだ。「夢じゃないのか」と彼は言った。そう言われてみるとリアルな体験にしては記憶の欠落が多いような気もするし、小学生の思い出にしてはやけにブルーだ。だから実は、この話はぼくの見た夢かも知れないのである。しかし、そう考えるとあの男の言葉が不思議に耳の奥に響くのだ。
「おれたちは夢を売ってるんだ!」
テレビの出現と交代するかのように消えた紙芝居やチンドン屋。そして時々はテレビ人も言うことがあるあの言葉。小学生のぼくは勿論、あの男に金は払っていない。しかし、この夢を買ったとしたら、何を代価に支払ったのだろう。
…東西ー東西ー!
…サァさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!
…ぼくちゃんたち、あとで菓子やるからついてきな
そんなことを岡っ引きの男が呼ばわっていたように思う。あいにくとAはチンドン屋が出現した五坪程の駐車場の斜め真向かいに住んでいた。Aはいくぶん名残り惜しそうに門扉を押し、ガレージ横の石畳のアプローチに入っていった。玄関を開けると彼は母親を呼んで何か言った。出て来たAのお母さんはぼくらに気づき、微笑んでやはりAに何か囁いた。珍しいね、と言ったようだった。Aはクラシックギターを習っていて、だから両親は音楽に関わるものなら何であれ理解があったらしい。ぼくらはチンドン屋御一行様になりきって、始まったばかりの旅から離脱する彼を黄金バットのように笑い、ハーメルンの笛吹きよろしく、チンドン屋の後えをついて行った。
ぼくの家はそこから百メートル程も直線で行ったところにあった。コーヒーの仲買を個人で営む親戚の伯父から格安で借り受けていた古い雨漏りのする家だった。現在、グーグルのストリートヴューで確認すると、その近辺はいかにもオシャレな建て売り住宅街に変わってしまっている。毎年台風が来る度に母親が気を揉んで、過ぎ去る度にこの木のおかげでこの家はもっとるよと言ったクロガネモチも残っていない。
今、考えると、あの連中は年端のいかない餓鬼を集めてどういう宣伝効果を期待したのか。もとより宣伝効果などは期待していなくて、彼らとしては昔ながらのサービス精神を発揮したに過ぎなかったのだろう。子供が親に話すと言っても、当のその親がチンドン屋そのものに目を奪われて、口上までは憶えていなかったに違いない。実際、子供だったぼくは、彼らが何の宣伝をしていたのかわからなかった。しかし、これはその後起きた小事件のせいでぼくが記憶から消し去ったのかも知れないとも思うのだ。
町は古い長屋と螺旋階段やエレベーターのある吹き付けタイルのマンション、スーパーカーブームでコルベットが停めてあるのを目撃したピロティ構造の鉄骨のアパートや薬湯と電気風呂の銭湯、それこそ乱歩の世界にでも通じていそうな看板もない黒い板塀の民家の写真屋、つげ義春の漫画に出てきそうな窓から蒸気をもうもうと出すクリーニング屋などが混在していた。十メートル程歩いたところだった。その長屋の一角から主婦が出て来た。或いはたまたま家の外にいてぼくらの様子を窺っていたのだろう。上級生でも下級生でもぼくらは同じ学区内は集団で登校していたから、そのおばさんには少なくとも小学生の子供はいなかった。近所の人だが初めて見る人だった。
おばさんは「そんな人たちについて行っちゃいけない」とチンドン屋の後ろをついて歩くぼくらに言った。
「おい、あんた、そんな人たちたぁ、どういうことだい」不意にチンドン屋は足の運びを止め、聞き捨てならない台詞に若い岡っ引きが食ってかかるように言った。
その後の二言三言の双方の声高なやり取りは大人の会話だったのでぼくにはわからなかった。ただ、はっきり憶えているのは、若い男のその時放った「おれたちは夢を売ってるんだ」という叫びと自分の気持ちの変化だ。ああ、この人たちは何か悪い、何か胡散臭い人たちなんだ、そう思うのと同時に、この人たちは何か弱い人たちなんだというずるい考えも浮かんでいた。そして自分も何か悪いことをしたという反省顔と引き換えに、彼らをより弱い立場に追い込むことを承知でおばさんの囲む「強い愛」の腕のなかへと逃げ込んだのだ。
チンドン屋は捨て台詞のひとつでも吐いただろう。祝祭的な雰囲気は突如かき消され、素に戻ってしまった彼らは怒りに満ちながらも諦めた様子で立ち去った。四つ辻を曲がらずに、そのまままっすぐ晩春のアスファルトを進んでいった。それでチンドン屋が行ってしまうと、ぼくらはおばさんの持つ引力が思いがけず弱いのにたじろいだ。ぼくらは子供心にも間に立たされ、やがて曖昧な態度のまま、また歩き始めた。途端におばさんは、ついて行っちゃいけないと叫んだ。
「家があっちなんです」とぼくは自分でも冷静に答えた。辻で友達の一人と別れた。今やチンドン屋は楽の音を鳴らさずに二十歩程前方を黙々と歩んでいたが、岡っ引きは二度三度と顔を横に向けると、振り向きざまにぼくらに怒鳴った。「このヤロー、ついてくるんじゃねぇ!菓子なんかやらねーぞ!」
「ねぇ、公園で休もうよ」女が疲れた声で言った。
次の辻でチンドン屋は右に曲がったので、同じ方角に帰らねばならない気の弱いKが立ち止まった。ぼくもいささか呆然と立ち止まったものの、チンドン屋は次の角を左に折れ公園に向かうらしいとわかったので、ぼくらは悄然として別れた。ぼくは家に帰り、早速、母親に話した。今頃珍しいな、と母は言った。音楽鳴らしとったろう。ぼくはおばさんについて行くなと言われたことを話した。母は何処の人かと訊き、あきらかに困惑しているようだった。そのうち「まあ、今時はその人の言うとおりかも知れんわなあ」と独り言のように言った。ぼくは家でしばらく遊んだ後、辻で別れたIの家に遊びに出掛けた。Iの家は門構えの立派なちょっとした旧家だった。ぼくらは外で遊ぶことに決めて、すぐ近くのH市場の前まで来た。すると、そこになんと、あのチンドン屋の男女がいたのだ。彼らは市場の裏の空き地にじっと座っていた。女が泣いていた。
「もういいじゃねえか」と岡っ引きの役者が言った。慰めていた男がふと、ぼくらの視線に気がついた。
「なにジロジロ見てやがんだ」
男の声に女も顔を上げてこちらを見ると憎々しげに言った。
「本当にいけ好かない餓鬼だねぇ!」
記憶はここまでしかない。
ぼくはこの時一緒にいたIに二十代の頃、この話をしたことがある。ところがIは憶えていないというのだ。「夢じゃないのか」と彼は言った。そう言われてみるとリアルな体験にしては記憶の欠落が多いような気もするし、小学生の思い出にしてはやけにブルーだ。だから実は、この話はぼくの見た夢かも知れないのである。しかし、そう考えるとあの男の言葉が不思議に耳の奥に響くのだ。
「おれたちは夢を売ってるんだ!」
テレビの出現と交代するかのように消えた紙芝居やチンドン屋。そして時々はテレビ人も言うことがあるあの言葉。小学生のぼくは勿論、あの男に金は払っていない。しかし、この夢を買ったとしたら、何を代価に支払ったのだろう。