タイムマシンがあったら、あなたは未来に行きたいですか?それとも、過去ですか?
なんて、仮定の質問を聞いたことがあるかも知れません。
ほんとうにタイムマシンができたとしたら、過去だろうと、はたまた未来だろうと自在に行けるでしょうから、そんなケチ臭い選択はないことでしょう。
でも、あえて究極の選択をするとしたら、どちらかというのは、気になるところではあります。
ですけど、両者は同じ条件なんでしょうかね。
過去に行ってみるのは、なるほど楽しそうです。
ぼくが子供のころ、自販機のジュースは、たしか七〇円でした(八〇円だったかな?)。グアバという不味いジュースがありましたが、過去に行けばあちこちに、そうだ、こんなものがあったといちいち懐かしいでしょう。
それに〇歳から三歳ぐらいまでは、人間は普通健忘症にかかっていて、記憶がありませんから、何かそこで大きな発見をするかも知れない。
もちろん、過去に自在に旅行できたら、毎日が歴史上の大発見ばかり、邪馬台国がどこにあったかも、たちどころにわかることでしょう(邪馬台国ハワイ説なんて冗談もあるようですが)。
ですが、いずれにせよ、過去というのは、言うまでもなく、終わったことです。
決定されてしまったことです。歴史にIfはありません。
これに対して、未来はどうなんでしょう。
ぼくはいま、夜のコーヒーを飲みながら、これを書いていますが、さて、ぼくはそのコーヒーを今すぐ飲むことができます。そうではなく、少し我慢して、十秒後に飲むこともできます。
この二つはわずかな違いにすぎませんが、しかし、別々の未来の筈です。タイムマシンに乗って未来を覗くとしたら、どちらの未来があるんでしょう?また、どちらか一方に決まってるとしたら、決めたものはなんでしょうか?
意志の力でしょうか?
コーヒーを飲むという行為にそれほどの意志を払うでしょうか。
というわけで、SFでは多元宇宙とかパラレル・ワールドというのを考えだしました。
知っている方も多いと思いますが、そこでは先程の例で言えば、コーヒーをすぐに飲んだ世界もあれば、十秒後に飲んだ世界もあるんです。いろんな可能的な時間軸に沿った世界が無限に平行して存在するわけです。
それでは、この可能性の世界というのは、どこまであるんでしょうか。
なにしろ、可能性の世界ですからね。
たとえば、ぼくは、今後の生活面を無視するなら、アメリカに渡るぐらいの旅費はあります。そこで、突然アメリカに行ってしまうんです。後先は考えない。そして、できない英語を駆使して宝くじを買ったところ、これが大当たりするんです。
ぼくはニューヨークにアパートを借りることができました。金に余裕をもったぼくは画材を買い求め、絵を描き始めます。これをひょんなことからアパートの大家に見せたところ、とても褒めあげてくれ、買ってくれるというのです。
しかも、この大家は画廊をもっていて、なんと今度、個展を開かないかと言ってくれました。
かくして、ぼくはアメリカで画家として成功を収める。
可能世界には、そういう世界がありうるわけです。
ある学者は、そういう可能世界のひとつ、ひとつが同じ現実性の水準で存在すると言って物議を醸したようです(デイヴィッド・ルイス。筒井康隆『モナドの領域』p.188参照)。
ですけど、たとえば、ヒトという生物がまったく存在しない世界と、先程言った、コーヒーを飲む・飲まないで違ってくる些細な違いの世界と、まったく同じレベルで存在するとは、やはり考え難いんじゃないでしょうか?
話が込み入りましたが、多元宇宙に於いてもやはり決定されているのは現在で、未来ではありません。
ところで、普通に考えますと、ぼくはアメリカに単身渡ろうとは思いません。
なぜでしょうか?
もちろん、客観的に見て、アメリカで画家として成功するなんてことが、ぼくの場合は可能性として低いからです。宝くじに都合よく当たるなんてことに保証はまったくないし、ぼくは中学生以来絵筆を握ったこともない。
アメリカに渡ることは、確かに不可能ではない。
でも、やろうとは思わないわけです。
あり得ない話ではないが、それが起きる確率は限りなくゼロに等しい。
そう考えるのが、まあ普通でしょう。
これを逆に言いますと、可能世界には現実になる確率が非常に高い世界がある、ということでもあります。
つまり、未来は決して決定されていないが、しかし、おおよそは決まっている、ということです。
簡単に言うと、運命というものがある。
未来を覗きたくもあるし、怖くもある。
過去とは違って、そんな心理が発生するわけですが、ここで話を変えまして、
いまから五秒後、核戦争は起きるでしょうか?
あなたはどちらに賭けますか?
起きる方?起きない方?
こんな賭けを相手してくれる人がいるとしたら、十中八九、起きない方に大金を賭ける筈です。
起きる方に賭けたら、勝っても勝てません。
われわれにはひとつの終わりの未来がある。
考えてみれば、戦後ずっとその意味のない将来が未来にあるのです。
なんて、仮定の質問を聞いたことがあるかも知れません。
ほんとうにタイムマシンができたとしたら、過去だろうと、はたまた未来だろうと自在に行けるでしょうから、そんなケチ臭い選択はないことでしょう。
でも、あえて究極の選択をするとしたら、どちらかというのは、気になるところではあります。
ですけど、両者は同じ条件なんでしょうかね。
過去に行ってみるのは、なるほど楽しそうです。
ぼくが子供のころ、自販機のジュースは、たしか七〇円でした(八〇円だったかな?)。グアバという不味いジュースがありましたが、過去に行けばあちこちに、そうだ、こんなものがあったといちいち懐かしいでしょう。
それに〇歳から三歳ぐらいまでは、人間は普通健忘症にかかっていて、記憶がありませんから、何かそこで大きな発見をするかも知れない。
もちろん、過去に自在に旅行できたら、毎日が歴史上の大発見ばかり、邪馬台国がどこにあったかも、たちどころにわかることでしょう(邪馬台国ハワイ説なんて冗談もあるようですが)。
ですが、いずれにせよ、過去というのは、言うまでもなく、終わったことです。
決定されてしまったことです。歴史にIfはありません。
これに対して、未来はどうなんでしょう。
ぼくはいま、夜のコーヒーを飲みながら、これを書いていますが、さて、ぼくはそのコーヒーを今すぐ飲むことができます。そうではなく、少し我慢して、十秒後に飲むこともできます。
この二つはわずかな違いにすぎませんが、しかし、別々の未来の筈です。タイムマシンに乗って未来を覗くとしたら、どちらの未来があるんでしょう?また、どちらか一方に決まってるとしたら、決めたものはなんでしょうか?
意志の力でしょうか?
コーヒーを飲むという行為にそれほどの意志を払うでしょうか。
というわけで、SFでは多元宇宙とかパラレル・ワールドというのを考えだしました。
知っている方も多いと思いますが、そこでは先程の例で言えば、コーヒーをすぐに飲んだ世界もあれば、十秒後に飲んだ世界もあるんです。いろんな可能的な時間軸に沿った世界が無限に平行して存在するわけです。
それでは、この可能性の世界というのは、どこまであるんでしょうか。
なにしろ、可能性の世界ですからね。
たとえば、ぼくは、今後の生活面を無視するなら、アメリカに渡るぐらいの旅費はあります。そこで、突然アメリカに行ってしまうんです。後先は考えない。そして、できない英語を駆使して宝くじを買ったところ、これが大当たりするんです。
ぼくはニューヨークにアパートを借りることができました。金に余裕をもったぼくは画材を買い求め、絵を描き始めます。これをひょんなことからアパートの大家に見せたところ、とても褒めあげてくれ、買ってくれるというのです。
しかも、この大家は画廊をもっていて、なんと今度、個展を開かないかと言ってくれました。
かくして、ぼくはアメリカで画家として成功を収める。
可能世界には、そういう世界がありうるわけです。
ある学者は、そういう可能世界のひとつ、ひとつが同じ現実性の水準で存在すると言って物議を醸したようです(デイヴィッド・ルイス。筒井康隆『モナドの領域』p.188参照)。
ですけど、たとえば、ヒトという生物がまったく存在しない世界と、先程言った、コーヒーを飲む・飲まないで違ってくる些細な違いの世界と、まったく同じレベルで存在するとは、やはり考え難いんじゃないでしょうか?
話が込み入りましたが、多元宇宙に於いてもやはり決定されているのは現在で、未来ではありません。
ところで、普通に考えますと、ぼくはアメリカに単身渡ろうとは思いません。
なぜでしょうか?
もちろん、客観的に見て、アメリカで画家として成功するなんてことが、ぼくの場合は可能性として低いからです。宝くじに都合よく当たるなんてことに保証はまったくないし、ぼくは中学生以来絵筆を握ったこともない。
アメリカに渡ることは、確かに不可能ではない。
でも、やろうとは思わないわけです。
あり得ない話ではないが、それが起きる確率は限りなくゼロに等しい。
そう考えるのが、まあ普通でしょう。
これを逆に言いますと、可能世界には現実になる確率が非常に高い世界がある、ということでもあります。
つまり、未来は決して決定されていないが、しかし、おおよそは決まっている、ということです。
簡単に言うと、運命というものがある。
未来を覗きたくもあるし、怖くもある。
過去とは違って、そんな心理が発生するわけですが、ここで話を変えまして、
いまから五秒後、核戦争は起きるでしょうか?
あなたはどちらに賭けますか?
起きる方?起きない方?
こんな賭けを相手してくれる人がいるとしたら、十中八九、起きない方に大金を賭ける筈です。
起きる方に賭けたら、勝っても勝てません。
われわれにはひとつの終わりの未来がある。
考えてみれば、戦後ずっとその意味のない将来が未来にあるのです。