北國加賀乃国 能美郡濱田村 「諏訪社1300年の歴史」

                        (おたび祭りのはじまり)

       

 

能美郡濱田村にある諏訪社は、昔の濱田町歴史会の資料によると1300年前からあり

弘仁十四年 (八二三)、越前国より江沼郡と加賀郡が分離して加賀国ができた (類聚三大格、日本紀略)。立国と連動して江沼郡より能美郡が、加賀郡より石川郡が分離する。これによって加賀国は、加賀郡・石川郡・能美郡・江沼郡の四つの郡になる。諏訪社の春季祭として 祭神 建御名方命 祭礼 (四月十五日)とし、秋には 祭神 櫛明玉命 祭礼 (七月二十七日)となった。

諏訪社の参道は当時、本蓮寺 (今の材木町の南側) 前まで続いていて鳥居もあった。

寛永十六年 (一六三九)、加賀三代藩主前田利常が思い出深い小松、能美郡の一部および越中新川群二十二万石余を養老地と定め隠居した。

隠居時代 改作法の断行に伴う家臣の反発を鎮めるため、利常は幕府の矛先をかわすため、六月二十日に分藩を願い、徳川家光より許可を得た。早速、その領地八十万石を 嫡男光高へ家督を譲った。

 

天皇から頂いた延喜式神名帳式内社 (九二七年) 菟橋神社を、一0六五年に小野から上小松町へ遷座。

天正八年 (一五八0) 一向一揆平定後、小松城主に村上義明が任ぜられ、十八年間小松の治世に当たった。その間積極的に社寺の城下への移転、造営に当たった。記録はないが、菟橋神社が上小松村から城内南側に移されたのはこの頃と推察される。

 

正保二年(一六四五年)長男光高、急死した為、利常は失意の念に襲われた。

そこで、利常は加賀百万石を守る為に一六五一年 、1300年前から濱田村にあった諏訪大社に、二の丸から守り神(小松城、金沢城、今江城の守護神)として菟橋神社を移した。諏訪社に神輿と神具を奉納して、第一回の祭り (今のお旅祭り) が始まる。(祭りは1400年前後から4月15日に行われていた)

当時の二の丸、三の丸に住んでた住人達を上小松に移し、お旅祭りの時に稲荷神社(葭島神社)移住した人たちの特別な華麗な舞で始まった。

祭りは濱田、上小松、小野が中心で行われた。上小松では大太鼓を鳴らして、神輿を迎え戦前頃まで続いた。

 

前田利常時代「一六五一年」菟橋神社移築のときに、「旧岡本病院」前を大手門にし、参道の中に大手門が設けられた。大手門(覚円門)

「現在の小馬出町の南側の入口」

内濱田は小馬出町の入口から現在の浜田まで。濱田村は、大手門から現在の本蓮寺までが濱田村であった。内濱田は橋北全体の管理を任されていた。

御城内にある諏訪社に民が入れるのは、年3回の正月、お旅祭り、秋季例祭 (すいか祭り) の時だけ大手門が開いて入れた。

 

 

 

家紋の話になるが、諏訪社の家紋は花菱であったが、

 
   


前田利常は戦いの為に、槍梅鉢の槍をあえて

 


花菱の中に加えた。この家紋は特殊であり、ここの諏訪社だけに使われている。戦いで花が散っても槍だけは残すとゆわんばかりに、花柱から直接出ているのが特徴である。この槍は父、利家が槍の名手であった為、このような形にした。

 

 

 
   

 

 

前田 利常 (当時中納言) は、さらに加賀百万石を守る為に、明暦三「一六五七」上牧村と出村村の間に小松天満宮建造。天満宮の場所は、小松城からみて鬼門の位置にあたり、金沢城から見ても裏鬼門の方角にあたる。光高が生きていたならば、利常は天満宮を造ることはなかったであろう。

万治元年「一六五八」前田利常、小松で没す。

万治二年「一六五九」前田直之、小松城代、藩士の多くが金沢へ引っ越し、小松には城藩を置く。

元禄九年「一六九六」に菟橋神社が諏訪社を仕切ろうと思ったが(〇っ〇り)越前の人に仕切られた。諏訪之社内に越前より引越し、居住人の支配をする。十二日 神渡し、十五日 濱田村「せぎの方」に御旅。十七日、御帰座。

濱田村のせぎの方から出発したのには理由があり、当時は神輿の出発する方向が鬼門にあたるため、それをさけるために葭島神社を鬼門にし、せぎの方に御旅所の小屋が建てられ、ここで神輿は清められ、濱田のせぎの方に三日間駐留し三の丸から上小松村、小野村に向った。

 その時から濱田町の氏神様として栄え、春の大祭四月十五日には渡し船で往来し近郷から沢山の参拝者が弁当を作り一日がかりで訪れ、その姿が一日旅するような格好であり神輿の渡御で春の大祭、お旅祭りと名がついたといわれます。

 

当時、諏訪神社の氏子は泥丁・松任丁・新丁・濱田村・寺丁・西丁・大文字丁・龍助丁・八日市丁・東丁土居原丁(十丁・一村)諏訪神社で橋北・橋南関係なく構成されていた。

一八〇〇年山王宮本折日吉神社が九龍橋側(海老川)から南側は、日吉神社の氏子という事で小松城番あてに文書を出され、城番がそれを了解した。

だが 大文字中町地方は元々諏訪社の氏子である。 いまだ尚、諏訪社の末社として巌之御魂神社が諏訪社境内にまつられているのである。                                                                                                                                                            大文字中町地方とは一七八五年頃から諏訪社の氏子であり、中町地方は現在の西町(九龍橋を渡り、はくさん信金と内田平太郎商店の間まで)、大文字地方は現在の芦田町(浜田橋から入って田端邸よこの用水まで)である。そこまでが現在の諏訪社の縄張りとなっている。

 

 

寺丁・西丁・大文字丁・龍助丁・八日市丁・東丁・土居原丁の氏子が祭りが別々になることを懸念して反  対した。この頃から橋北・橋南と分けられるようになり、この氏子の分裂により、日吉神社の祭りだけが許可制となった。

大政奉還後、秋の大祭は毎年八月二十六日に新しい〆縄を奉納して祭りを迎えてきたが濱田の若連中で作った西瓜を冷やし参拝者に売り若連中の運営の資金としていた所から秋の大祭を西瓜祭りといわれるようになったと言われています。

お諏訪さんのお旅祭りと西瓜祭りは年々隆盛を極め能美郡や小松町の二大祭りとなってきたがその神事の御世話を濱田の若連中がしてきたのも当然であります。この氏神の御加護で濱田村は人があつまり恵まれた村であった。この氏神様を守り悪魔を払いのけようという願いが棒使い獅子になり参拝者にて濱田の棒使い獅子と有名になった。

 

明治八年七月に菟橋神社が諏訪社を、また仕切ろうと思ったが(〇っ〇り)、神社庁は菟橋神社の号を止め相殿諏訪神社を以て産土神とすべき(諏訪社のおまけ)を命ぜられ、改めて小松諏訪神社と称し 十四年七月郷社に列せられしも、十五年八年旧称(小松諏訪神社)に復することを許され、二十九年七月二十三日県社に昇格、三十九年十二月二十九日神撰幣帛料供進神社に列せらる。菟橋神社というよりも諏訪神社の方が通りがよい。諏訪神社の神様は昔より平和の神様で喧嘩嫌いの神様であらせられると有名であった。その頃から「おすわさん」の愛称で呼ばれるようになった。

 

文政十二年「一八二八」諏訪大明神と菟橋神社に分けて、祭礼が行われる。

  諏訪大明神

                祭神 建御名方命    祭礼 四月十五日

                祭神 櫛明玉命   祭礼 七月二十七日

   菟橋神社

                祭神 神武天皇    祭礼 三月三日 

            祭神 木菟宿祢    祭礼 八月朔日         というようになった。

明治五年には右両社を一つにして旧に復してる。摘記すると、

  諏訪社菟橋神社         祭礼 四月十四日、十五日

                    祭礼 七月二十六日、二十七日

さらに、明治期でも         大祭礼祭   五月二十五日~二十七日

                                       秋季例祭  九月十五日~十七日

大正期では、                       神幸祭   五月十二日~十六日

                                       例祭      八月二十七日

 

神輿の奉昇は旧得橋郷並旧小野村上小松村の若者達によって奉仕されこの神輿の巡幸に当って氏子の各家庭では献燈し幔幕や御簾を張り家族は正装して拝するを例としている。上小松では大太鼓を鳴らして、神輿を迎え戦前頃まで続いた。

昭和十六年「一九四一」第二次世界大戦が始まり、4年間祭りは行われなかった。

終戦後、祭りは再開はしたものの、人口減少の為、小野、上小松は加わらなくなった。

そして今の祭りの姿となっている。

 

 

資料は、

菟橋神社誌、小松旧記 浜田町歴史会 HPから第二章前田利常の戦い、葭島神社、天満宮

 

 

      あとがき

 

濱田村 (浜田) は諏訪社の氏子であって、菟橋神社は前田家の守り神だ。

本来であれば利常公が死去した時にやめなければならない祭りでだった。

大文字中町地方に「たむけ」をすることは、氏子にとって御駐輦 よりも縄張の意味で重要。また、小野、上小松町の人々への敬意として松任町交差点にて東向きで「たむけ」をすることが戦後からの習わしとなっている。

私たちは、あまりに変貌しつつある周囲の様子を見るにつけ、以前より昔の浜田の姿を今のうちにすこしでも後世に残したいと思っていました。

町内の親老会、長老の方々にお集まり願い伝説や想い出の話等、有益なお話をいろいろと聞かせて頂き大変参考となり、ここに資料と共に掲載させて頂きました。

温故知新とよく言われます。古きをたずね新しきを知る。私達の子供時代の思い出を振り返りますとずいぶん周囲も移り変わってしまいました。そして人の心も移り変わっております。どうしてよいのかわからないが、とにかく見た物、聞いたものを残そう、そんな気持ちでまとめました。町内の若い人が将来資料集めをするときに少しでも役に立てば、御年配の人にはなつかしい思い出に浸ってもらえれば、大変うれしく思います。

 

                                        令和元年 吉日  濱田町歴史会

 

浜田町150年以上封印されてきた事、また語り継がれてきた文化の話を書いてゆきたいと思います。

                                        令和6年 吉日  濱田町若連中