「仕事なんて探せばいくらでもあるんだから、自分が仕事を選ばなければ何だってできるんだよ。それで仕事がないとか働けないとか言ってる奴は甘えてるだけ。社会的弱者はルサンチマン爆発させて年中アベガー!ジミンガー!国ガー!なんて言って何でも人のせいにしやがんの。機会がないとか言うけどお前に何ができんの?何か資格取ったの?大したこともないくせにいつまでも夢を諦められなくて仕事を選んでいるだけだろ。」

今の日本には本当にこのような言動を取る世間知らずなバカが多く存在し、日本が人手不足に陥った原因は辛いことや厳しいことから何でも逃げ出す甘ったれなんだと言っておられる。(特に一部の政治家や行政の方たち)
まともな経験を積まなければ当然一人前にもなれないが、最初から即戦力になる実務経験者、若い新卒見込みの者以外は就職としては不可能であり、基本的には要らないということになっている。
ブランクの長い者、まともな職歴のない中高年などはアルバイト、パート、日雇い、派遣などで重労働か単純労働の仕事ぐらいしかないが、「そこから逃げてんのはあんたらだ」とおっしゃっておられる。
彼らに言わせれば「甘ったれのせいだ」の一点張りなのだが、まず一般常識もないし、まともに口も利けないし、いちいち侮蔑的だし、何も知らない相手に対して露骨に上下関係を意識させる言動をひたすら取り続けるといった人格に重大な問題を抱えておられる方を底辺の世界にいるとよく見る。(政治家などに限らず、底辺の現場にそういう「天下り」※1してきたお方ががよくおられる)
我慢しながらしばらく続けているうちに態度も変わってくるものだが、仕事内容が過酷であったり、平気でサービス残業をやらせたり、全く安全対策を取らなかったり、といったことによって結局長く続けられないことが多い。
※1 「俺はここに来る前はもっといいところにいたの」といったことを仰っている方たちのこと。俺を見くびるなよという意味。
 
 
 
底辺にいれば仕事を選ぶ余裕などそもそもないのだが、実際にそういう現場に行ってみると「ここは訳ありの人しかいないけど何であえてここに来たの?」「覚悟はできているんですか?」といった会話からまず始まる。
実際には仕事をやろうとしている側は何でもいいのだけど、相手(事業所)の側が「この人はこの世界の人ではない」といった態度を取っていることもよくある。
つまり、仕事には明らかに合う・合わないというものがあり、合わないことで自分が無理に付き合おうとしてもまず上手くいかない。
これも個人的な意見などではなくその世界の人間が言うことなのだが、仕事というのは人間関係なのだから、やる気や経歴や若さだけの問題ではないと誰もが言う。
自分に合うのかどうか以前の問題として、その世界の人間が「この人にできるのかどうか」といった感覚になっている。
仕事というのは、「お前が困っている弱い立場の人間なら、何でもいいからやればいいだろ」というものではなく、どういう世界の住人なのかといった、人間のタイプの違いというものがある。
しかし、何でも屁理屈ばかり言って現実を歪めてしまう胡散臭い学者や偽善者にはそれが分からず、ただ数字だけを見たり、立場だけを見たりするだけで、相性というものを無視している。(学者のような連中はともかく、政治家や官僚などであれば本当は分かっているのだろうが、腐った根性の連中だから分からないふりをしている。)
現実として、底辺の仕事というのは文字通り社会を支えているのだから必要な存在だが、紳士淑女の世界であることはあまりないため、何かしら人間関係のトラブルが起きたり、言動に問題があったり、「ああ、コイツは何かあるからここに来たんだろ。(例えば前科者とかまともにコミュニケーションも取れないとか)」といった先入観で人を見ていたりする。
実際に行ってみたりやってみたりすれば現実はそういうもの。

 

 

 

資格というのも専門職に就くために必要であったり、あった方が望ましいといったものであって、資格を取ると仕事にありつけるという意味のものではない。

つまり、未経験者が資格だけ取ってもそんな奴は要らないということになってしまい、カネと時間を無駄に費やしたことで骨折り損のくたびれ儲けになる。

教材を購入したり試験を受けたりするだけでもカネは掛かるのだから、それを回収してその後の収入に繋がらないのであれば教育ビジネスのお客さんとして業者に協力したことにしかならない。

苦労が報われなかったという思いが後に残ることになり、より一層恨みを募らせたり病気になったりこれ以上の努力はもうしないという憔悴した状態に陥る。

何か資格を取れば、たとえ何歳であっても自動的にカネが入るとか希望する仕事に就くことができるというのであれば、恐らくほとんどの日本人は資格の勉強をやり続けるだろう。

しかし現実は当然そうではなく、資格は趣味に近いのかもしれない。

絶対に取るべき重要な資格が何かあるのだとすれば、あえて言えばそれは若い高学歴であり、若さと学歴こそが最高の資格と言っていい。(特に理系)

それこそが自動的に将来を約束されたような感覚に浸ることができ、カネは掛かるが収入も多くなるし立場も上になれる。

少なくともこの国では今もそう信じられている。

 

学校というのは本来、階級や貧富の垣根がなく、平等に教育を受けさせるということが理念だったはずだが、現実はそうではなかった。

実態としてはむしろ学校で階級が決まるように社会ができている。

そして出自によってどういう学校に通うのか、どういう教師が担当になるのか、どういう扱いを受けるのかが決まっていることがあり、フェアではない。

つまり、努力が報われる仕組みなのではなく、最初からある程度、子供がどういう道を歩むのかが決まっている。これでは昔とあまり変わらない。

嘘や卑怯な手口で大したこともない奴らが頭がいいという社会的評価を受け、バカでも怠け者でもないのにそのような烙印を押される者もいる。

現代の教育制度は一種の洗脳や宗教であり、本当の学びの場であるとは到底思えない。

自分が通ったことのある学校にいつまでも帰属意識のようなものを持ったり、それを誇りであるように語ったり、それで人を見下したりしているが、そのことを何らおかしいとも思わない。

自分の家系が頭が良くて努力したから立派になったのだと本当に信じており、家系がバカな奴は子供も必ずバカとか、何も努力してこなかったから勉強もできないんでしょと信じている。

確かに遺伝というものは子供に影響するが、それをあまりにも強く意識したり、逆にあまりにも強く否定したりする向きがあり、じゃあ高学歴ならとりあえず文句ないでしょという形で一応の決着がついたのだろう。

それで決着してしまうと現代社会が抱える人手不足や少子化の問題を解決することもできないように思える。

 

日本の場合、大抵、学歴は偏差値で決まるが、その偏差値教育というものは純粋に国民を教育するための指標ではなく、自民党が国民を支配するために中曽根康弘が導入したものであると中曾根のアドバイザーを務めていた人物が証言している。

人材を育成することよりも自分達の支配体制を盤石にすることを重視してきたことで歪んだ優生思想とアンフェアな学歴社会が結びつき、高学歴=高スペック=高収入=結婚できる男=子供をもうけることができる、という仕組みが完成した。

当然、アルバイト、パート、日雇い、派遣、無職といった立場の人達の多くは結婚もできないし子供もいない。

高卒でも「いいところ」に就職できれば別だが、それも例えば公務員になる場合は出自やコネが大きく影響している。(恐らく公益法人も同様)

そのような階級意識や機会不平等などが人材不足や少子化にも影響しているように思える。

特に機会に関しては、経験を積ませてもらえなければ一生何もできない人間になってしまうのだから、学歴なんかよりもずっと重要なことではあるが、その機会が一部の者にしか与えらない社会になってしまった。

 

【参考】
まず学力偏差値は、私が大学入試をしたときにはなかった。

1970年代に全国的に広まったが、普及した背景には、72年に起きた浅間山荘事件がある。連合赤軍の残党5人が、浅間山荘の管理人の妻を人質にして9日間にわたって立てこもった事件だ
首相になった中曽根康弘氏のアドバイザーを務めていたときに、私が「また学生運動が盛んになりませんか」と尋ねたら、中曽根氏は「心配いりません。学力偏差値を全国的に導入して、政府に逆らう学生が出ないようにしていますから」と即座に言った。
偏差値というものは「○○大学のおまえは偏差値60の分際だ」と、自分の位置づけを上から目線で強烈に意識させる。

偏差値が全国的に普及すれば、「おれは優秀だ」という勘違いから、政府に楯突く学生はいなくなる、というのだ。

偏差値で育った世代は「高校時代に学年でトップだった人間が、東大法学部に入って官僚や政治家になったのだから、彼らに任せておけば安心だ」と平気で言うことがある。まさに政府の思う壺だ。

ペーパーテストが得意な人間が仕事もできるかといえば、そうでないことは言うまでもない。
偏差値は、人生のある一時期に、あるコンディションのなかで、試験にうまく回答できたという意味でしかない。

しかも、試験問題の9割以上は記憶力を試すもので、正解がある。
スマホ時代になって、記憶力はほとんど価値がなくなった。

いつでもグーグル検索ができるからだ。

現代社会は、記憶力で解くことはできない“正解のない問題”にあふれている。

たとえば「日本と中国はこの先どのような関係を築いていくべきか」といった問題は、記憶力だけでは答えが出ない。

“考える力”が重要になる。

だが偏差値では、重要な問題を“考える力”は測れない。人生における偏差値の価値は、きわめて疑わしいのだ。

 

 

 

要するに、徹底的に社会的弱者をいじめ続けたことによって「もうやってられるか」と思って働くことを諦めた者が大半なのであり、事業主側は「お前は困っている立場だから俺のところに来たんだろ?だったら何でも言うことを聞け!」といった暴君のような態度を決して改めることはなかった。

派遣会社の営業の奴でさえ自分の方が登録している奴らよりも立場が上だと思ってそのような態度を取っている。


人手不足の根本的な原因は仕事の条件の厳しさや給料の安さにあるのではなく、「上の人間」の程度の低さが原因だと個人的には思っている。(人との接し方や活かし方を理解せず、自分が偉く、こいつらが下っ端といったものの見方をしている)

もし仕事の条件が厳しいからとか、給料が安いから、といったことが本当に人手不足の原因だと確信しているのであれば、条件を緩和したり給料を上げたりして人が集まるのかどうかを実験すれば分かるはず。(仕事が続きやすくはなるが人手不足解消にはならない)
つまり、使う側の人間性の問題ではないかという話であり、カネだの厳しさだのやりがいだの偏差値だの、そういったことばかり話題に上がるが、それが本当に重要なことだと思っているのであればやはり世間知らずなのではないかとしか思えない。
いわゆる「ブラックな職場」ということだが、そういう職場がなぜ離職率が高いのかということについてもっとまともな人間が対応していかないと、日本人だろうが外国人だろうが、今後、誰も身分が低い扱いなど甘んじて受け入れてくれるとはとても考えられない。(一部の外国人労働者は職場から逃げ出し、犯罪者になるケースもある)
「上の人間」もかなりのストレスが溜まっているらしく、自分よりも立場が弱いという理由で不満のはけ口としてやりたい放題になっていることが現実としてよくある。

個人的にはこの問題は既に終わったことであって今更何を言ったところで建設的ではないため、あまり関心事ではないが、現状を見れば今後どうなるのかも予想しやすいこともあり、一応、これから大変なことになるという実感はある。
自民党の奴らはつまらないことのために数千億円、数兆円、数十兆円という金を海外、建設業、医療業界、宗教団体にばら撒き続けているが、自国の国民の生活保護などには出し渋り、生活に困っている者、あるいはもう生活ができなくなっている者が非常に多い。
役所で生活保護を断られた者は「さっさと死ぬか犯罪者になるかどっちかにすれば?」と言われてことになる。
役所や警察などからすれば八方塞がりになった奴は犯罪者予備軍だから余計なことをせずにただ大人しくしているか、さっさと死ぬか、どっちかにしてくれと思っているのだろう。
 
 
 
バブル崩壊後の日本企業は安全志向が強まり、少数精鋭部隊+使い捨て部隊で構成されるようになり、少数精鋭部隊になれなかった者は皆、切り捨ての対象となっている。
そのような選り好み傾向が非常に強まり、日本企業が自分達の身の安全のために今の人手不足を招いた面がある。
少数精鋭部隊だけをしっかり確保するために選り好みが激しさを増す一方、重要ではない仕事は全て使い捨て部隊にやらせて、仕事がない時はさっさと切り捨てる。
これこそが企業側からすれば最もリスクが低く、人件費を抑えることができるのだから当然の経営判断であるとも言える。
(このようなことは日本企業に限ったことではなく、資本主義陣営であれば大なり小なり似たような状況となっている。日本は米英などに学び、成長したが、衰退の仕方もそっくりだった)
少数精鋭部隊に入れなかった層は単純作業の使い捨て部隊になるか無職か犯罪者にでもなるしかないが、そういったあぶれた人達はトレーニングを積んでまともな人材になることを最も望んでいる。(あるいは何もかも諦めている)
しかし、国や企業としては全くその気はなく、未だに無意味な資格の勉強やらアルバイトやら、そのようなことをやっている者が努力していると評価しているらしい。
しかし、ほとんどのあぶれた人達はそんなことをしても報われないと思っていたり、散々いじめられたり痛めつけられてきたことでまた嫌な思いをすることを恐れて何もできない状態になっている。(病気やケガも多い)
20代前半までの学歴かコネのみでほとんど人生が決まってしまう単純化された社会になり果てたが、現実としてはそこまで世の中が甘いわけではなく、それも終わりを迎えつつある。
これまで少数精鋭部隊に属していたと思われていた層も資本家の都合で切り捨ての対象となり、負け組化することも多くなってきた。
一時的に一部の業種で好景気になったり新たな産業が生まれることによって人材が欲しくなっても、条件を満たした若い子か実務経験者以外要らないということに変わりはなく、また不景気になったり特定の産業が衰退したりすることで切り捨てが始まり、また負け組が増えていく。
そうしてどんどんあぶれた人達が圧倒的多数派になっていき、いくら企業が若い子や実務経験者を欲しがっても人材の取り合いになることでほとんど確保することができなくなっていく。
一度いいところに採用されたからといって一生安泰ということはもうあり得ない時代であり、採用、クビ、採用、クビの繰り返しによって人材は疲弊していき、ついには誰も働かなくなる。
そのように人を物として扱うことが資本主義経済の病巣なのだろう
要は人の問題なのだが、政治家は偉い学者先生の講釈を有難がり、実態のことなど何も理解できていない。
 
 
 
最近ではどうすれば少子化に歯止めがかけられるのかといったことを政治家は議論したり様々な方策を検討したりしているようだが、ある学者が見出した答えが「最大の原因は未婚化。低収入の男性は選ばれない」というものだった。
政治家や行政が議論している内容はそもそも差別ありきで階級意識が強くて話にならないが、学者の話も間違ってはいないにしても解決策にはならないことを言っている。
(ある自民党議員は公の場で「順調に行けばいいが、私の先を見通すこの目のなかには決して順調ではない可能性がある。またその状況の中で不測の事態に陥ってはいけないと考えた。他人事のようにとあなたはおっしゃったけどね、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたと違うんです。」などと言った言動を取っていたが、学者の方も教科書の内容しか知らないようなことばかり言っていて、何も苦労などしてこなかったのだろう。)
「産めよ増やせよ」のスローガンがあったのは1939年であり、高度経済成長期があったのは1955年~1973年までの19年間だったのだから、ベビーブームがあった1946年頃~1953年頃までの時期と重なっていない
つまり、ベビーブームの頃は低収入で景気がいいわけでもないのに戦争終結で安堵した人々が子供を作った。
 
「子育てにかかる最大の出費は大学や専門学校の学費で、将来の出費への不安から出産を控える人は多い。それこそが日本特有の重要な課題なのです。」とも言っているが、それに関しては日本に限らず先進国では共通している。
教育は必要だが教育ビジネスはマイナス要因も大きい。
いわゆる「いい大学に行っていい会社に就職しなさい」というのをやっているとどうしても勝ち組・負け組が生まれることになるが、勝ち組になれる者の方がずっと少ないのだし、勝ち組になれなければ選ばれないというのであれば未婚化も解消しない。
安倍以降、力を入れてきた大胆な金融政策と財政出動による経済成長も当然幻想であり、失敗だったのだから経済成長を根拠に勝ち組を増やそうと思っても無理がある。
 
結局のところ、先進国の場合、戦争の終結に安堵した人々が子供を作り、避妊具の普及で出生率が急激に下がり、子育てに高額な費用が掛かることで出生率はそのまま低迷している。
戦後間もない頃は戦争が終わったというだけの理由で子供を作ったが、現代は余程の金持ちでもなければ子供なんて作れないという時代になった。
 
出生率ランキングを見ると、アフリカが圧倒的に多く、中央アジア、東南アジア、南米なども多いが、それらの地域は貧しい人々が多いのだから、日本だけに目を向けるわけでなければ収入こそが少子化対策で最も重要とは言い切れないはず。
ただ少子化だけ解決すればそれでいいというのであれば避妊と中絶を禁止すればいいのだろう。(避妊具が普及し始めた1970年代以降、出生率は低下している)
少子化といっても実際には単純ではなく、確かに先進国ではカネが掛かるというのが最大の原因になっているが、みんなが金持ちになることなど余程恵まれた条件が揃った国でもないとできないのだからカネのことばかり言っていても解決しない。
先進国では子供に惨めな思いをさせたくないから子供を多く作らないとも言われているが、その階級意識こそが人手不足の原因でもあるのだから、そういう意識がまさに負のスパイラル、自滅と言っていい。
先進国の中でも現実には階級があり、低い身分の者はまるで奴隷や家畜のように扱われる。
先進国と途上国、高い身分と低い身分という現実を丁寧な言葉遣いや美しい嘘で覆いつくし、自分が傷つかないように努力してきた。
しかし、途上国に住んでいると皆が奴隷のように働いているのかというとそうではなく、途上国の中でも裕福な者はいるし、従業員をこき使っている者もいる。
犠牲になっているのは低い身分の者であり、それ以外の者は先進国であれ途上国であれ罪深い存在として生活を営んでいる。
誰かを犠牲にしないと生きていくことができないようになっている。
全部先進国が悪いとか、途上国だから被害者だとか、そういう短絡的な話の仕方では何も理解できないし、罪を背負って生きている自覚をすることも当然できない。
 
 

「あぶれた人達は皆、自分の夢を追っている人達であり、大した才能もないのに夢を諦めきれないから仕事を選んでばかりいる。選りすぐりをしているのはあぶれている奴らの方だ」といったおかしなことを本気で言っているバカもいるが、実際にはほとんどそういう者はいない。
要するに、働き手がどういう仕事でもいいからやってみると思える状況にないのであって、あぶれた奴らが根性がないだとか甘えだとか夢を追っているだとか言っているバカは昔の感覚のまま今を捉えている。
あるいは、やってみたけどとても長く続けられるような内容ではないということでもある。
長く働くにはある程度楽でなければならないが、仕事が続かなかったり、もう働くことを諦めたりしている者は非常に酷い思いをしているから続かない。
上から目線で物事を見ている連中は身勝手で残忍なことを平気でやるものだが、自分達が間違っているわけではなく、あぶれた奴らの方に問題があると確信している以上、改める気は当然なく、このまま人材不足が加速して自分達も負け組になっていく。そうなって初めて理解するようだ。(スパルタ教育の後でゆとり教育に変えた時もそうだったが、労働市場でも同じようなことをもしかしたらやるのかもしれない。上の人間というのは大抵、そういうことばかりやっている。)
2023年3月時点で企業の倒産件数は2008年のリーマン・ショック後で最長を記録し、14年ぶりの規模になっているというニュース記事を見たが、恐らく今後はそれぐらいの次元では済まされず、社会に居場所のない人や貧困がさらに増え、戦争でもやるしかなくなるのだろう。
 
 
 
現実の世界では過酷な環境で重労働や単純作業などを長時間やっていると続かなくなるため、できるだけ人数を多く確保できるようにし、一人当たりの労働時間の短縮をしていくことができれば持続可能になるし効率も上がることが知られている。
「そんなことはどこでもやってることだし、そういうことでパートとかバイトとか使ってるんだけど、そういう人達がすぐ辞めるもんだから、それで次に新しい人が入ってこないと仕事にならなくなるの」というような現場の声もあるのだろうが、自分に向いている仕事というものを頭ごなしに否定するのではなく、「こういう人はこういう仕事に向いていて、とりあえずこういうところから始める」といった当たり前のことを見直すべきなのだろう。
今の世の中は勝ち負けばかり意識し、向き不向きを軽視するが、それが人も社会も狂わせている一因になっている。
 
収入が少なくてもシェアリングエコノミーがある程度機能していれば購入するよりもずっと費用を安く抑えることができるのだから、所有することに拘らない経済が低収入でも豊かに生活する上で非常に有望視されている。(カーシェアリングなど)
中古市場などもそうだが、新品に拘らなければ安く購入して所有することができ、低収入であれば何でもシェアリングというわけでもない。
「シェアリングエコノミーの相互評価による信頼資本こそが富のバロメーターとなるのかもしれない」という意見もあるが、これも資本家によるビジネスであり、時代の流れに沿った市場規模の拡大が起きている。

 

政治家などはマクロの経済指標や株価ぐらいしか見ようとせず、低成長時代に合った豊かさに対する理解が欠けている。

「強い経済を取り戻すため、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略によって経済の好循環を生み出す」といったバカげたことをいつまでも言ってないで、シェアリングエコノミーなどに代表されるような現実を直視した豊かさを受け入れやすくしていかないと、非常にいびつな、極端な経済になり、カネも仕事もうまく回ってこなくなる。

つまり、それらの滞留が起きていることで、まるで空気や水が滞るように、カネも仕事も澱んでいる。

(実態として、アベノミクスは増税の隠れ蓑だったのだろう。お友達重視のカネの使い方でもあった。岸田も増税路線で官僚の言いなりのようだが、安倍の時のようなビジョンを示せず、意味不明なばら撒きや巨額の支出が目立つ。)

 

結局、どのように社会的弱者を煽り立てたところで、どこの国に生まれたのか、どの時代を生きたのか、どの家の出身なのか、という3つの要素で人生はほとんど決まってしまうことに変わりはない。(健康状態も大きく影響する。一般的に健康を損なうとほぼ人生終了となる。)

自分の努力や根性などはそれほど人生に影響しないと言われているがその厳しい現実を受け入れることは国にとっても社会的弱者にとっても難しいことなのだろう。

努力そのものは必要だが、その努力を何に注ぐのかということが重要なのであり、「選ばなければ何でもあるだろ」ではない。

 

※(向いているのかどうかは実際にやってみないと分からないことが多い。希望する職種なのかどうかより、とりあえずやってみて駄目なのかどうかを判断し、乗り換えることが容易にできれば問題ない。そしてそれを何度も繰り返しているうちに疲弊しないような配慮が必要。「男なら一度決めた道を突き進む。真っ直ぐ生きる。」みたいな時代劇風の考え方では通用しない。つまり、合わないならすぐ辞めてもいいが、その後に他の仕事にすぐに就いてもらいやすい環境であればいい。)