この動画では中国の漁民が尖閣諸島に上陸するのと同時に中国が台湾に向けてミサイル攻撃するという想定でシミュレーションしているが、中国が台湾侵攻を決断した際に日本も同時に敵に回すメリットなどないのだから、中国政府や中国軍がそのようなことを考えているとは思えない。

もし、誰かにカネを掴まされた武装した中国の漁民が尖閣諸島や与那国島などに上陸するようなことがあれば、その時は中国当局に連れて行ってもらえばよく、自衛隊や米軍が出る幕ではないはず。(中国当局が上陸して連れて行くという意味ではない)

 

あるいは中国漁船が日本の領海内に入りそうになっている時点で中国当局が自分で対処するべき。

上陸後であれば海上保安庁が対処して数百人の不法入国者を強制退去させるのは難しくなってしまうが、中国当局が不法入国者に何らかの形で対応しないと日本と中国が戦争状態に近い状態に誘導されてしまう。

 

この動画では約200隻の中国漁船が一度に尖閣諸島に押し寄せ、武装した漁民に上陸されるという想定にしているが、それだけ多くの数が来てしまった場合は海上保安庁だけでは対処できないだろうという意地の悪い話にしている

法律上は不法入国ということになるのだろうが、それだけの武装漁民が海上保安庁の制止を振り切り、強引に上陸してしまっては、「どうだ、これでは海上保安庁や警察では対処することが無理だろう」といった話を作っている。

この想定は法律の穴を突くような話になっており、恐らく中国政府や中国軍がそのような軍事作戦を考えているのではなく、アメリカ政府か台湾政府がそのような状況に誘導し、日本を台湾有事に引きずり込もうとしているのだろう。

アメリカ政府や台湾政府の魂胆は分かりやすいが、日本側としては法律上、対処しづらい想定にすることでどうしても自衛隊と米軍が軍事行動を取るしかないような悪意あるシナリオを作っている。

だからこそ中国当局が自国の国民の違法行為に対処するべきではないかと思う。

日本人の漁民が台湾や中国の領海内に侵入しそうな場合も、恐らく海上保安庁がそれを知りつつ放置することはなく、厳重に注意したり何らかの強い対処をするはず

 

 

領海・EEZを守る|海上保安庁 (mlit.go.jp)

不法入国事犯の取締り強化(不法上陸1)|海上保安庁 (mlit.go.jp)

不法入国事犯の取締り強化(不法上陸2)|海上保安庁 (mlit.go.jp)

不法入国事犯の取締り強化|海上保安庁 (mlit.go.jp)

 

 

 

・追記

最近のアメリカはジョージアでもウクライナでもアフガニスタンでもそうだったが、台湾に対しても梯子外しをするつもりなのだろう。

しかし、台湾有事の場合は日本に集団的自衛権の行使をやらせようとしている。そして今ではそのための法的根拠や既成事実の積み上げもある。(安倍政権下で強引に法整備した憲法違反の安保法制や外交など)

 

 

・追記

中国漁船の大船団(200~300隻)が尖閣諸島周辺海域で漁を行っていたことが2016年と2021年にもあったが、この時も中国当局の指導が注目されていた。

「尖閣諸島の周辺は、魚の種類も豊富で、隠れて漁に行く船も多い」という漁業関係者の話もあり、度々中国漁船が領海侵犯したり、中国海警局の船が日本の漁船にプレッシャーを与えるように領海侵犯したりすることはあるが、これは中国の漁民を兵士として鍛え上げ、大規模な民兵として尖閣諸島などに突撃させて占拠することが目的というより、単に魚が欲しくてやっているような印象を受ける。

ANNの動画では漁民が武装して尖閣諸島に上陸するという想定になっているが、数百人の漁民がアサルトライフルなどを装備して尖閣諸島を占拠するといった訓練を受けていたり、中国政府がそのような命令を漁民に下し、漁民がその命令に従って命懸けで尖閣諸島に上陸するといったことが本当にあるのかどうか疑問。

尖閣諸島は何もない無人島なのだから、仮に漁民が突撃してきたとしても、いつまでそんなところにいられるんだという疑問もある。

尖閣諸島には船着き場すらない。※1

 

【参考】

同保安本部によると、2隻は7日午後2時頃までに日本漁船に接近するようにして領海に侵入。同3時40分頃までに領海を離れたが、漁船の動きに合わせて再び領海に入った。

 

※1調べてみたら魚釣島には一応の船着き場跡があることが分かった。しかし、かなりの浅瀬で幅もかなり狭いため、小型ゴムボートでもなければそこから上陸することはできないらしい。つまり、船が接岸できるような船着き場はないようだ。浅瀬であることは北小島と南小島も同様。(恐らく、実態としては船着き場ではなく、ボートが流されないようにL字型に削って、その中に格納していたのではないかと思う。)
「尖閣諸島に日本人が住んでいたのは1890年代後半から1940年にかけて。魚釣島を中心に一時は約250人が暮らした。」